第27章 それゆけ、謙信様!*愛惜編*
「入れ」
「へ…?」
着物の乱れを直し、必死に暴れる心臓と格闘していた桜の耳に聞こえた一言。
「入れ、と言っている。さっさとしろ」
「え、あ…」
呆気に取られる桜を置いて、謙信は開いたままの屋敷の裏木戸から中へ戻っていく。無表情で、桜を振り返った
「…そのまま濡れて帰るか」
「い、行きます」
予期せぬ事態に再び走り出す鼓動に気付かないふりをして、桜は慌てて謙信について中へと入った。
「あの、ここは…?」
「安土での根城だ」
「そうなんですか」
町屋敷など、どうすれば根城に出来るのだろう。気にはなるけれど、話す気のなさそうな謙信に余計なことまでは聞くまい。
「拭け」
「ありがとうございます」
放られた手ぬぐいを受け取って、髪や顔を拭う。咄嗟に謙信について中へ入ってしまったけれど、丘の上での二人きりとはわけが違う。緊張に体が強張り、どうしていいか分からない。
「座れ」
桜の様子など意に介さない様子で、謙信が言い放った。硬い表情のままで、何とか腰を下ろす。
「この雨で鍛錬も出来ずに、退屈していたところだ。お前で我慢してやる」
「は、はあ」
話相手をしろ、ということだろう。謙信と面と向かい合って、何を話せばいいのか。
「謙信様は、梅干しがお好きだと聞きました」
「ああ、好きだな」
良かった、買っておいて。
会話の取っ掛かりが出来たことにほっとしつつ、懐にしまっていたままだった包みを取り出した。幸い、濡れてはいない。
「これをどうぞ」
「俺にか」
少し驚いたように目を見開き、謙信は包みを受け取った。
「お好みの物かどうか分かりませんが…」
「…いや」
包みを広げ、中を見た謙信の口元が綻び、優しい形に微笑んだ。嬉しそうなその表情に、桜の心は沸き立ち、限りない喜びに包まれる。