第26章 それゆけ、謙信様!*氷解編*
静かに酒を飲んでいたのだろう。立てた片膝に預けた手には杯が握られている。
驚きに立ちつくす桜を、静かな瞳が見た。
「何をしに来た」
「あ…えっと」
はっとした桜は、言葉に詰まる。町並みでも見下ろしながら、風に当たろうと思って来たのだけれど。
「良ければご一緒しても…いいですか」
「…は?」
桜は内心ドキドキしながらも、木をぐるりと回り込んだ。謙信の座る位置からちょうど反対側まで来てから、腰を下ろす。
「何の真似だ」
「私も、ここへ来たかったので。お邪魔はしません。ここなら、謙信様から私の姿は見えませんよね?」
「…好きにしろ」
もしも謙信が怒りだしてしまったらどうしようか、そう思っていた桜は、その言葉に肩の力を抜いた。
「俺が怖いのではなかったか」
「…そういえば…あまり、怖くなくなりました」
桜の答えに、木の向こうでふっと笑う気配。桜は、自分でも心境の変化に驚いていた。
慣れちゃったのかな。
数日に渡り逃げ回り、謙信に対していちいち怖がることに疲れてしまったのかもしれない。普段から、謙信にも引けを取らない無茶苦茶な武将達の相手をしているのだ。そうだとしても、不思議ではない。
ふわりと顔を撫でる風に目を細めながら、桜は町を眺める。青く澄んだ空の下、賑わう市の喧騒が、遠く波のように聞こえてくる。
「もし、お邪魔じゃなければ…話をしてもいいでしょうか」
「…なんだ」
「警戒されていると聞きましたけど…まだ安土に、いらっしゃったんですね」
「その警戒が厳重で、しばらく身を潜めているしかなかった。数日もすれば、安土を離れられよう」
「そうですか…」
ざ、とまた風が吹いて、桜の周りの草が波打つ。以前思った、謙信の事が知りたい、という気持ちはまだ、ある。
でも、話題がない…。
また団子屋の時のようになってしまったら、さすがに心が折れてしまいそうだ。