第26章 それゆけ、謙信様!*氷解編*
「泣くな」
荒い仕草で、謙信の手が桜の目元を拭うように触れた。驚きに、桜の胸を覆っていた感情があっさりと霧散していく。
「…泣いていませんよ?」
「泣いているのと変わらん…そんな顔ではな」
そんなひどい顔をしていたのか、と焦り顔の桜の横で。
熱い。
桜の顔に触れた手が、妙に熱く感じて眉をひそめる。
元はと言えば、幸村のせいだった。戦をする身でありながら、女に想いを寄せるなど。口づけした後の様子を見るに、桜とは男女の仲、という訳ではなさそうだったが。
偶然目撃してしまった二人に、謙信は強く不快感を覚えた。逃げて行った桜にはもちろんだったけれど、それ以上に幸村にも。
いらいらとした気分のまま、本気で幸村に斬りかかった。それでも気が晴れずに桜を追いかけてみれば、分かりやすく顔に動揺が表れていて。
うっ憤をぶつけるように、ついきつい言葉を浴びせた。自分の言葉に、ぐっと何かをこらえるように顔をしかめた桜を見て、反射的に手を伸ばして、触れた。
「あの、謙信様」
「なんだ」
「大会では、助けていただいて…ありがとうございました」
「……」
先ほどの会話で力が抜けたのか。礼を言うという行為故か。桜の顔に自然に浮かんだ、ふわりとした笑顔に、謙信は微かに目を見開く。
「礼など、必要ない。行きがかり上、助けたにすぎん」
「それでも、私は無事で済みましたから」
もう一度。嬉しそうな深い微笑みが咲く。
怯えた顔にも、泣きそうな顔にも。
…笑顔にも。
何故こうも胸がざわつくのか。
謙信は、自分の中に芽生えつつあるあるまじき感情に、無意識に蓋をしていた。大事な物など、もう作るつもりはない。
「そういえば謙信様、私に用がおありだったんですよね」
「いや…もう済んだ」
「…っ」
桜の笑顔に釣られたのだろうか。謙信自身は、佐助や幸村と話す時と同じように薄く笑ったつもりだったのだけれど。