第26章 それゆけ、謙信様!*氷解編*
「何故、逃げた」
謙信は桜を連れて、通りを戻った。姿が隠れる建物が増えた所でようやく立ち止まり、桜にそう問いかける。
「…それは…」
「早く言え…斬られたいか」
「言います!」
言いあぐねる桜にいら立ったように、謙信が言葉をかぶせた。なるべく穏便に聞こえるよう、桜は慎重に言葉を選ぶ。
「戦の時にお会いした時に…少し、恐れを抱いてしまって。それが忘れられないので…つい、反射的に逃げてしまいました。申し訳ありません」
「俺が怖いか」
「そ、そう…です」
恐る恐る頷いた桜に、謙信はふんと鼻を鳴らした。
そういうことか。
桜が自分を怖がっているのならば、顔を見るなり踵を返すことにも、笑顔を向けないことにも得心が行く。ただ…面白くはない。
「刀も振るえん女をただ殺すほど、俺は暇ではないわ。だが、目が合っただけで逃げ出されるなど、不愉快極まりない」
「すみません…」
「分かったら、次は逃げるな」
「は、はい」
神妙な顔をして頷く桜に満足するけれど、謙信の心は晴れない。桜の顔は依然強張り、笑顔が影を潜めているからだ。
「おいお前、笑ってみろ」
「…急にそう言われても…」
謙信の無茶な要求に戸惑う。正直、まだ緊張が抜けていないというのに。
「いつもその笑顔で、男どもを誑かしているのだろう」
「そんな…っ」
誑かす、なんて。
あまりの事に言葉を失う。けれど、幸村が自分に対して抱いてくれていた好意に全く気づいていなかったのも、確かで。
謙信に会った事で鳴りを潜めていたぐちゃぐちゃとした感情が、再び桜の体を占領していく。
外からは、私が愛想を振りまいて周りに媚びているように見えるんだ。
ガツン、と頭を殴られたような衝動に、こみ上げてくるものを無理矢理に押さえつける。
泣いたり、しない。私が悪いんだから。
幸村にあんな顔をさせたのも、きっと自分だ。そう思うと、自分の馬鹿さに腹が立ってくる。悔しさに、ギュッと手を握りしめた。