第25章 それゆけ、謙信様!*猛進編*
「あ、あの」
躊躇いがちな、けれどしっかりとした声が信玄を引き戻す。思いがけず抱いた気持ちを押し戻してから、腕の中の桜を見下ろした。
照れているというよりは、人目を気にして羞恥に赤くなる桜が、体を起こそうと力を込める。
あまり困らせない方がいいか…。
解放してやるように力を抜けば、桜はさっと体を離して居住まいを正す。
「すまない…あまりにも、君が可愛かったものだから」
「あまり、からかわないで下さい」
朱に染まる顔を見られたくないのか、信玄とは逆の方を向く桜に苦笑が漏れた。
どんな女性も、それなりに美しいと思う。声をかけて、自分のかけた言葉や贈り物で嬉しそうに笑ってくれたら嬉しい。
安土で桜と再会した時、ああこの子は、と気付いた。戦場に蒼い顔をして縮こまっていた女。
枯れ葉よりも命が軽く散っていく戦場にいるには、あまりにも不釣り合いな無垢な眼差し。笑っている所が見たいと、ただそう思ったことを覚えている。
「…姫、君はもう戦に行くな」
「え…?」
唐突な信玄の言葉に、桜がきょとんとした顔を向ける。
ああ、この顔もいい。
「君は、血が流れる場所になんていちゃいけない。甘味でも食べて、綺麗に笑っている方が似合う」
「はい…ありがとう、ございます」
綻ぶように、桜がふわりと笑った。嬉しそうなその笑顔も、いい。
いろんな顔で笑うんだな。
桜が自分に向けてくれる笑顔で、こんなにも満たされる、なんて。
君は気付かないだろう、姫。
それで、いい。
今、この柔らかで温かな時を桜と共に過ごせていることは、信玄にとって何物にも変えがたい。
「君がいつまでもその笑顔でいてくれたら、俺は嬉しい」
「…はい」
敵地で、敵将に守られている女にこんな言葉をかけるなんて、我ながらなんと都合の良いことだろう。
悲願を達成するためには、容赦などするつもりは毛頭無い。それなのに、心は勝手に願うのだ。
どうか。
俺のいない世に、大事な笑顔がより多くありますよう。