第11章 好機逸すべからず
丸花蜂の羽音がする。
気怠い午前だ。空気が湿気て重い。
それが公務用の簡易卓に書類をひろげ、ぼんやり視線を浮かばせて流れるままに思考する。
幼い頃幾度となく父波破から聞かされた昔話に辿り着く。
巌という忍がいた。
波の国に出自を持ち若くして水の国へ渡り忍になった巌は、生まれついて身のこなしが速く、いつともなく現れ何処ともなく消える不思議な男だった。
山野海川を巡って本草の知識を積み重ねた巌は医療忍者となり、他と一線を画す独自の医術を実践するようになった。
薬を精製するのを嫌い、草の性を巧みに合わせる事によって体の質を変え鍛える事を推し進め、治療もまたひたすらに本草を主に巧みにする巌はめきめきと頭角を現し、医療班での地位を不動のものにする。
その場にあるものを用いて簡便に医をする巌のやり方は、任務に随行するのに便利がよくまた効率的だった為、彼のもとに学んだ医療忍者はよく死んだ。
つまりそれだけ有能かつ便利が良く、前線に出る重責を負う任務が多かったという話。
元より学者肌で争いを好まなかった巌は苦悩した。
そもそも。
狭い卓の上から湯呑みを取り上げ、冷めたお茶を口に含んで波平は苦笑した。
巌師は人の上に立つ器ではなかったのだろう。・・・私のように。
人には向き不向きがある。有能であるかどうか、いや、有能でいられるかどうかは、適材と適所にかかっている。
巌は同じ医療班の妻と子を連れて里を抜けた。
まあ言ったらば逃げた訳だ。
愉快そうに微笑して、波平はお茶を入れ直しに立ち上がった。
快哉。誉められたものではないだろうが英断でもある。
行き過ぎれば共倒れる。完璧な医術は有り得ないが、優れれば全てを求められがちだ。結果を出せないと判断するのは結果を出すより簡単で、悪い事に判断する側は往々にして権力を物した人間である。
そうでなくとも大きすぎる期待は裏切られたときの失望や怒りも大きくする。医師として師として、弟子の死をその家族に責められるのは気が優しかったろう巌という男にとって如何にも荷が重かっただろうと思われる。
権力に興味のない巌にすれば先にいい目は見えなかったろうし、荷が勝ち過ぎては思う仕事も出来なくなる。
時々フと思う。
散会のとき、もし牡蠣殻を連れて逃げていればと。