第1章 眼鏡の下
電車の中は時間のせいもあって空いている。長椅子に座る人の姿はまばらで、居るとすれば会社帰りのサラリーマンだ。皆一様に項垂れている。その寂しげな後頭部には車内の嫌に明るい光が強すぎるほどに当たっていた。
そんなある種奇妙な空間で、私と唯くんは隣り合って座る。
向かいの席は無人で、真っ黒に染まったガラスに私達の姿がくっきりと映っていた。私は隣に座る唯くんの顔をガラス越しに見詰める。
唯くんは電車が揺れる度に光る、ホットティーの水面を眺めているようで、ずっと下を向いていた。だけど私の熱烈な視線に気付いたのか、やっと顔を上げてくれた。
ガラスの中で目が合って、私がにこりとしてみると、唯くんは目を伏せた。
無愛想なやつ。
「ねえ、さっき何て言ったの? 聞こえなかったよ」
「別に、大した事じゃないですから」
「じゃあ教えてくれても良いよね」
「しつこいな……」
「男はしつこいと嫌われるけど、女はちょっとくらいしつこい方が可愛いの」
「それ、自分で言いますか」
あ、なに笑ってんだよ、いい加減私も怒るぞ。
「分かった。じゃあ訊かないもん」
私がそう言うと、唯くんは少しだけこっちを見てきたけど、あえて反応しなかった。私の方がふてくされたい気分になっていた。
「……分かった、言うよ」
よし、折れた。
「けど、電車降りてから」
「絶対だからね」
「うん」
人が居ないせいで静かな車内は、走行音でも会話を全部掻き消すほどではない。
こんな可愛いこと言われちゃうと、やっぱり全部許せるんだよね。これがいけないのかな。
目的の駅に着くまで私達はとても静かだった。
私と唯くんはいつもこんな感じなのだ。勿論色々おしゃべりする時もあるけど、なんかこう、お互いの空気で呼吸し合う感じが二人とも堪らなく好きで。
こうしてただ息をしているだけの時間は、この半径二メートルくらいの空間に純粋に私達だけの世界ができる。言葉も動きも何も要らない。
たまには手を触れたり繋いだりもする。だけど口数は多くない。
私はそれが好きだから良いけど。