第76章 ヒソップ
その大野さんが、不意に顔を上げた。
そんなことを思い出しながら眺めていたもんだから、咄嗟に視線を外すことができなかった。
「……?」
ちょっと不思議そうな顔をしている大野さんに、なんと言えばいいのか。
数秒見つめ合って、やっと、なんでもないと手を振って目を逸した。
何をやってるんだ…
慌てて社内メールのフォルダを開いていらないものを削除していたら、大野さんがこちらに歩いてきた。
「あの…課長…」
「ん?」
「今日よかったら、晩飯行きませんか?」
一瞬、オフィスに静寂が訪れた。
「ふぎゃ…」
「は?」
「メール…間違えて削除した……」
青天の霹靂とはこのことだ。
大野さんから人を飲みに誘ったということで、課内はざわついた。
今まで一度も、大野さんから人を誘うということがなかったからだ。
「え…?ど、どうしたんですか?」
「い、いや…気にするな。なんでもない。それから晩飯はオッケーだ。このメールを復元させたらすぐに出られる」
「はあ…」
矢継ぎ早に言うと、目を白黒させて…
そして微笑んだ。
「では、一段落ついたら声を掛けてくださいね」
そう言い残して席に戻った。