第62章 新・忍びのむに
この後、織田家の武将を調べた無門と潤之介は、浜松にいる家康に報告をし、京に戻った。
鉄の鍛冶屋での修行を見守りつつ、京の探索をし家康に報告する日々だったが、本能寺の変が起こった。
家康は信長に招待され上洛するところであった。
大阪でその報を受け取ったとき、家康の周りにはごく僅かな供回りしかいなかった。
もちろん、武装もしていない。
光秀により家康は首を狙われることとなり、また畿内は落ち武者狩りが激化し、農民たちは一揆を起こした。
気が小さくて絶望家の家康は知恩院にて自害することを主張したが、供回りに説得され領地まで落ち延びることを決意する。
この逃避行を「神君伊賀越え」という。
潤之介と無門は記録には名前が出てこないが、この神君伊賀越えをよく助けた。
大阪から京に入った家康は、その後甲賀を経て伊賀に入り、無事に岡崎に落ち延びることができた。
この道程、守りきったのは潤之介と無門であったのだ。
特に無門は、伊賀越に際して、地元の郷士の情報を逐一家康に伝えた。
その御蔭で、家康は無事に岡崎まで逃れることができた。
家康は二人に感状と直臣の地位を与えようとしたが、二人は断った。