第56章 傾城屋わたつみ楼
「智…俺と一緒に…」
「だめっ…」
翔の手からボストンバッグを奪い取ろうとした。
だけど、俺の身体は翔に抱きしめられていた。
「今まで言えなかった…智の年季が明けるまでと思って…」
ぎゅっと翔の腕に力が入った。
「好きだ…智…」
ふうっと息を一つ吐くと、しっかりと俺の顔を見た。
「一緒に生きていこう…?」
わたつみ楼は…浮世の憂さを忘れる場所…
だから、自分の苦しいことも全部忘れていた。
想う人がありながら、他の人に抱かれる。
何もかも忘れていないと、生きていられなかった。
そんな俺のこと、ちゃんと翔はわかっててくれたんだ…
きっと、この言葉をあの蒼い部屋で聞いていたら俺は…
受け入れることなんてできなかっただろう。
「初めて会ったときからずっと…智と生きていきたいって思ってたんだ…」
「翔…」
「海外に行こう…?絵を、描きたいだろう?ニューヨークでも、ヨーロッパでも…どこでも行こう?」
「なんで…知ってるの…」
「部屋に飾ってあった絵…智が描いたって雅紀から聞いたよ」
「え…」
あんな片隅に飾ってあった絵を…翔はちゃんと見てたんだ…
「とても素晴らしい絵だった…」
そっと俺の頬を手で包んだ。
「智…俺と一緒に行こう…?」
いいの…?
一緒に行って…いいの…?
雅紀を振り返ると、微笑んでいた。
「行きな…智…もう、自由なんだよ…」
自由…俺は、自由なんだ…
「ほんとに…いいの…?」
「うん…俺も、自由になったんだよ…智」
「…え…?」
「会社、やめてきた。あ、大丈夫だよ。暫く二人で暮らしていけるくらいの蓄えはあるから」
「そんな…」
「いいから」
翔が俺の手を握った。
「行こう、智」
俺達が初めて会ってから、5年の月日が流れていた
「翔…」
「ん?」
「……俺も…言ってなかった…」
「どうした?」
海風が、優しく俺達の間を吹き抜けていった
「翔のこと、好きです…」