第9章 本当の名前
「ほうほう、ここでは咲弥は同じ建屋では暮らしておらぬのですな」
「はい。みなさまの人数が多くて忙しさが尋常では無いので、一人でゆっくり出来る場所をいただきました」
「良いことかと。先ほど見てきたが、あれほどの刀の数に、我らといた頃のように食事を振る舞っているのでしょう?とんでもない労力よ。いなり寿司はこの小狐丸の分だけでも良いですからね」
「ふふふ」
茶を入れながら小さく笑う束穂。
「その頭巾だけはとってもらえませぬか」
「そうでしたね……でも、その、ここでは実はいつもかぶっていまして」
「二人きりの時でも?」
「……では」
小狐丸の前では、なかなか意地を張り続けられない。
仕方ないと苦笑しながら束穂は頭巾をとった。
「おや、少し大人になったように」
「……あれから一年以上たっております」
「なるほど。咲弥の年ならば、一年で……っと、名前が違うのでしたな」
卓袱台の上にコトリと湯のみを置いて、束穂は眉をわずかに潜めながら謝った。
「申し訳ございません」
「どちらが本当の?」
「束穂が、本当の名前です」
「ふむ」
「咲弥という名は、あの本丸についての記録に残る名前ではありますが、それが一体誰なのかを後々誰にも知らせないために、あの時だけつけられていた名前です」
「では、今日から束穂と呼ぶようにいたしましょう」
小狐丸は出された茶を呑み「熱すぎず良い」と笑った。
けれど、束穂はそれへ言葉を返すことが出来ず、無理矢理作ろうとした笑みが中途半端なまま顔を硬直させる。
「……束穂、こちらへ」
「はい」
小狐丸は手招きをした。卓袱台の反対側からいぶかしげに膝をついたまま束穂が近づいていくと、その膝の上にぱさりと小狐丸の尻尾が載せられる。
「今日だけ特別ですよ」
束穂はふかふかの尻尾を撫でた。
その瞬間、あの美しい審神者がとても優しく、丁寧に小狐丸の毛を梳いていたことを思い出し、涙が湧き上がってくる。
「とても、綺麗な毛並みですね」
束穂は泣きながら、何度も何度も小狐丸の尻尾を撫でつつ、ようやく笑った。
「うむ。泣いても良いが、濡らさないでいただきたい」
「はい」
慌ててハンカチを出して、片方の手で涙を拭きながら、もう片方の手でまた何度も何度も美しい毛並みを撫で続けた。