第3章 Episode2【勧誘】
「……お待たせしました」
着替える間、待っていてくれた九条さんに声を掛ける。すると短い返事の後、名前を聞かれた。
「そういえば、名前聞いてなかった」
「……神咲律です」
「律、ね。それじゃ行こうか」
名前を呼ばれた瞬間、時が止まったみたいな錯覚に襲われた。
こんなふうに呼ばれる日が来るなんて考えた事もなかったから、無意識に立ち止まってしまう。
そんな私に九条さんは嫌な顔一つせず、
「ほら、帰るんでしょ?」
そう言って笑った。
「はい……」
笑顔を見て、顔が熱くなるのを感じながらも、2人並んで外へ出た。
*
2人で暫く歩いて、公園の近くまで戻った辺りで、私は立ち止まる。
「あの、ここで大丈夫ですので」
口ではそう言ったものの、ここで別れるのを寂しく思ったりする。
けれど、話せた事だけでも奇跡的だったし、しっかりと考えなければならない事も出来たから。
「そう? それじゃ、いい返事待ってるから……」
「はい……考えてみます」
私の言葉を最後に九条さんは背を向けて歩き出す。その姿を見ながら帰りに九条さんから、持ち掛けられた内容を思い出していた。
勧誘の内容は……八乙女事務所に正式に所属してTRIGGERの曲を作って欲しいというものだった。
突然だったし、何故私にそんな事を頼むのか理解ができなかった。だから、深く考える事もせず、断ろうとしたんだけど。
その前に、「返事は急がないから、考えてみて」と言われて……連絡先まで交換してしまったという訳。
「どうしよう……」
あまりに突拍子の無い出来事に困惑しっぱなしで、簡単に答えが出るとは思えなかった。
「TRIGGERの曲を私が……?」
考えるだけでドキドキするし、そうなったら素敵だなと思う自分もいる。
だけど、同じくらいに私なんかの曲で本当にいいのかと思う自分もいて。
「……今度のTRIGGERのライブを見に行って、それで考えてみよう」
借りた服も返さなければならないし。何より、改めて彼等の歌を聞けば何かが分かる気がした。
そう考えて、今日は休もうと決める。だけど、こんな特別な事があった日に眠れるわけもなく……結局気がつけば朝になっていた。