第28章 桜の咲く頃 四幕(十二歳)
「湖様、それはもうおやめくだされ…っ」
抱きつかれれば、湖から甘い花の匂いがするのだ
九つよりはっきりしたそれに、兼続が焦った様子で背を正す
「なんで?」
そんな兼続には気付かず、湖はお得意のように首を傾げて少し離れるのだが
頭の中はすでに遠出の事なのだろう
瞳をキラキラさせながら兼続に話す
「ととさまとね、もう二度馬に乗ってお散歩したの。だから、遠出も出来ると思うんだ!謙信さま前に「海」を見に連れて行ってくれるって言ってたの。だから「海」に行きたいんだ」
ぐいっと湖を起こし、少し距離を置いた兼続
それに対して気にもとめず、ふふっと嬉しそうに目を細める湖だったが、
「海…でございますか…」
向かい合った兼続の顔は怪訝なものだ
うーむと、兼続の渋る声が聞こえるのだ
「少し、遠いですな…」
「だから遠出なの…だめ?」
こてんと首を傾げる仕草はこどもだが、その表情は大人なのだ
(ほんとに…この湖様は…はっ!そう言えば、この方…)
「湖様、一点確認ではございますが…湖様の容姿。その…ご自分で自覚していらっしゃいますか?」
「喜之介に言われてちゃんと自覚してるよ?あれ、また何か私やった?かわいこぶってた?なんか、変な事した??」
あからさまに慌て出す湖に、兼続は三度天を仰ぐのだ
(駄目だ…まだ引きずっていらっしゃるのか。いい加減自覚していただかないといつなにが起こるのか…)
「湖様、事実を申し上げます。湖様の容姿は美しい姫なのです。何卒自覚していただきたく、またしていただかないと外出はおいそれとはできませぬ」
「ありがとー。ととさまも、佐助兄さまも、そう言ってくれるよ。大丈夫だよ、心配性だね兼続。湖なんてまだ裳着前の子どもだよー、子どもなんてみんな可愛いものよね」
ふふっと笑う姫と、がっくり方を下げる兼続
そんな二人の会話と様子を聞きながら、その場にいた家臣達は「兼続殿!がんばれ!」と心の中で応援するのでした
そして、唯一顔色を真っ青にしたのは喜之介の父親だけ
胃のあたりを押さえ「申し訳ありません、申し訳ありません」と小さく呟くのだった