第57章 最後に見た彼は 椚章臣
「少女は、その日の夜ピアノを弾きました。ショパン、モーツァルト、バッハ………有名な曲をひたすら。」
あの日の夜、何もかも思い出された。夢を叶える前の全てが。
ショパンもモーツァルトもバッハも、教えてくれたのは誰だったか。あまり上手に弾けずにいた自分に隣で教えてくれたのは誰だったか。
「そこで初めて気づきました。」
自分一人の部屋。そこで、賑やかだったピアノの音が止まった。
「……………………………………寂しいなぁ、と。」
「……ッ!」
斎藤は、過去にひたるのをやめた。
そしてピアノ椅子に座っている朔間を見上げた。
「どう?当たった?」
首をかしげながら、そう尋ねた。
「………………………嫌な先生…」
朔間はいきなり語られた物語の真意に気づき、顔をしかめた。一方で斎藤はいたずらっ子のように笑っている。
「夜更かしは体に毒ですよー。早く帰っちゃいなさいね。夜は元気でしょう、あなた。」
「えー…」
「これで明日の生物の授業寝たらわかってるんでしょうね?レポート何枚書きたい?50枚?100枚?」
「帰ります、先生」
急に礼儀正しくなり、ピアノにのせた楽譜を慌てて鞄に突っ込み朔間は小走りで音楽室から去っていった。
あまりの慌てぶりに「ちょっと可哀想なことしたわ…」と口許に手を当てて斎藤は反省した。
「……………寂しい、ねぇ。あの子も人間だわ。」
そう一人ごちて、残された斎藤は首を振った。
帰ろうとピアノの蓋を閉めて踵を返すと……………。
「…………大きな独り言でしたね。」
音楽室の入り口に、人影が見えた。
壁にもたれかかって腕を組み、じとりとこちらを睨み付けている。
「呆れた、いつからいたの?」
斎藤は白衣を脱ぎ、丁寧に畳んで鞄に入れた。その姿を見て、質問にも答えず椚がため息をついた。
「本当にその短いスカートを何とかしなさい……もうそんなに若くないでしょう、あなた。」
相変わらず、いつもと変わらないことを注意された。
「……何がおかしいんですか」
「ふふ、別に?」
斎藤にとって、そのことはとても嬉しいのだった。