第56章 それはそれは 七種茨
席に戻る頃にはお皿から溢れだしそうなほどスイーツがのっていた。
開いた口が塞がらない、というか……私は何も言えなかった。
(もしかしてこれ全部、食べなきゃいけないの?)
茨くんに尋ねようにも、幸せそうな彼に余計な水をさすようで何も言えなかった。
彼はさっそくケーキにフォークを伸ばす。私も真似をした。
「………おいしいね」
これは、さっき言っていたリンツァートルテというものか。本当に素朴で、おいしい。
「良かったです」
私の目の前で茨くんがニッコリ笑う。
大した会話もないまま、黙々と食べ進む。
私はその間に伏見くんとの会話を思い返していた_____
『茨くんって、悪い人なの?』
『はい、そうでございます』
あまりの即答に、私は手に持っていた本の堕落論を落としそうになった。
『難しいものをお読みですね?』
『……けっこう面白いよ。ねえ、話を逸らさないでほしいんだけど。』
『…………なぜ茨の話なんて…』
どんだけ嫌いなんだ、君は。
『もしね、茨くんが…………君とは何も関係がなくて、今さっき出会ったばかりとしたら何て声をかける?』
『…………何の話ですか?』
『ううん、あのね。知りたいの。』
私は本をパタン、と閉じた。
『茨くんっていう人間のこと。』
私はただ、この約束の前に彼がどういう人物か知りたかっただけだ。
今考えたら恥ずかしいことにこの質問には何の意味もなかったと思う……。
伏見くんをただ困らせただけになってしまった。
堕落論なんて、難しい本を読んだから頭がショートしてたのかもしれない。
私はあの本が好きだが、一つ気にくわないことがある。
人間って、堕ちるだけじゃないと思う。
『そうですね』
その時、伏見くんは即答しなかった。その顔は笑っていたかもしれない。
見たこともないくらい、優しい陽だまりのような微笑みを浮かべていたかもしれない。
『初めまして、ですかね』
『……普通だね?』
『初めて会ったときさえ言ったことがなかったものですから。』
私は伏見君の顔を見つめた。
茨くんが嫌いなんて、嘘なんじゃないかって思うような穏やかな顔をしていた。