第65章 『お客様は神様』って台詞は店側が言う台詞。
菊之丞「…葵咲さんにとって、理想の幸せとはどういうものですか?」
葵咲「私は…私はどんな形だって構わない。私はただ・・・・。」
菊之丞「ただ?」
葵咲「・・・・・。」
何かを考え込むようにして今度は葵咲が黙り込んでしまう。葵咲はその先の言葉を紡ぐか悩むが、結局言葉にはしなかった。
葵咲「…いえ、何でもありません。」
菊之丞「・・・・・。」
言葉を飲み込んでしまった葵咲の表情は哀愁を漂わせていた。そんな葵咲の顔を尚もじっと見つめる菊之丞。菊之丞は何か気の利いた言葉を掛けようとするが、やはりそれをやめて唇をきゅっと結ぶ。そして視線を逸らして掛けようとしていた言葉とは別の言葉を押し出した。
菊之丞「…すみません、踏み込みすぎました。さぁ、着物をお脱ぎなさい。」
葵咲「はい。…って、えぇっ!?なんでいきなり!?」
抱く気はないと言っていたのはつい昨日の事。そんな菊之丞からのこの発言に葵咲は思わず二度見してしまう。しかもこの話の流れでそんな言葉が出てくるとは一ミリたりとも想像していなかった。葵咲は驚いた様子で後ずさるが、菊之丞は至って真剣な表情。どうやら本気の様子だ。菊之丞は葵咲の傍へ擦り寄る。
葵咲「ちょ!」
次の瞬間、菊之丞は葵咲の腕をぐいッと引いた。
葵咲「っつ!!」
急に引っ張られた事で体勢を崩してしまう葵咲。変な体勢で腰をひねった為、昨日菊之丞ファンの女達と揉めた際に打ち付けた箇所に鈍い痛みが走る。菊之丞はその箇所へと手を当てながら言った。
菊之丞「別に深い意味はありません。腰の辺りを見せてごらんなさい。昨日あの女性達に絡まれた時にでも打ち付けたのでは?」
葵咲「! 知ってたんですか。」
その発言で納得がいった。先程女性客が獅童へ乗り換える素振りを見せ、菊之丞の気を引こうとしていた事、菊之丞が女を門前払いしようとしていた訳が。菊之丞の事をまだ深く知らない葵咲だが、昨日獅童に絡まれた際に助け出してくれた事や、自分を叱ってくれた事を思い出すと容易に察しがついた。菊之丞は自分達が揉めていた現場を見て、女達に釘を刺してくれたのだろう。