第111章 酒を酌み交わす事の意義。
月詠が神楽に連れて行かれた事で解放された一郎兵衛。一郎兵衛は疲れ切った様子で項垂れる。そんな彼の傍に訪れたのは松本だ。
一郎「あー。やっと解放された…。」
松本「お疲れ様です、一郎兵衛。」
一郎「!」
松本は熱燗とおちょこを持って一郎兵衛の隣に腰を下ろした。そしてそっと酒を注いで一郎兵衛へと差し出す。
松本「どうぞ。」
一郎「サンキュー。」
差し出された酒を受け取り、一郎兵衛はグビッと一気飲み。空にしたおちょこを再び松本の前へとズイッと出す。松本は目を丸くしながらもクスクスと笑って酒を注いだ。
一郎「まさかお前とこんな風に飲む日が来るなんてな。」
松本「そうですね。これも葵咲さんに感謝しなければいけない事です。」
一郎「だな。」
華月楼にいた頃の二人には想像も出来なかった事。
松本は犯罪に加担していた立場上、誰とも慣れあうつもりはなく、周囲と壁を作っていた。一方の一郎兵衛は当時松本を仇の対象として憎んでいた。松本は一郎兵衛が自分を憎む理由は知らなかったが、敵意を持たれている事には気付いていた。
先程、松本が目を丸くした理由はこれだ。
あの頃では想像出来ない一郎兵衛の態度。自分に酒を注ぐよう促す一郎兵衛は、心を開いてくれている。そんな彼の姿を嬉しく思ったのである。
二人を温かい空気が包む中、何かを思い出したように一郎兵衛は声を上げる。
一郎「…あ。言っとくけど、葵咲の事は譲らねーからな。」
キッと睨む一郎兵衛。突然の宣戦布告に松本は目を瞬かせる。だがすぐにいつもの表情へと戻り、不敵な笑みを浮かべて言葉を返した。
松本「その言葉、そっくりそのまま返しますよ。」
一郎「ヘヘッ。」
その返しを待っていたかのように嬉しそうな顔を浮かべる一郎兵衛。華月楼を出た今もライバル関係である事を噛み締めるように。