第44章 春風ーしゅんぷうー
手に。
手に触れるのが、ひどく気に適うことに気付いた。
乾いた小さな手。骨張って傷だらけの、手。
目を、じっくり見るのが癖になった。
大抵のことを見て見ぬふりでやり過ごす熱のない目。笑っていても奥深くを覗き込めば突き放して来る、何かを欠いた硬い目。自分だけが探ることを許された深みに、ひっそり埋み火を抱いた真黒い目。
不意に伸びた背筋に目を捕られる。いつも俯き加減でいるのが、偶さか何かの弾みに真っ直ぐな立ち姿を見せる。
そうしたときは大概何を見ているのか分からない。空を見上げていようが、人混みを眺めていようが。
この女が正真見ているものは何だろう。何を思っている?何を映している?
仄かな温もりが乾いた体から我の体に移るのが心地好い。
一体に生きている気配の薄い女の、その幽かで、だからこそ確かな証を抱え込むと呼気が深まる。胸が広がり、腹の底から穏やかな息が漏れる。
捉えどころのなさがむしろ気を唆った。
自身へすら頓着ない執着心のなさに昂った。
臆病で投げ槍で、掌中にどんな珠も持とうとしないこの女の、更地のように茫漠とした深みに土足で踏み込み、我を刻み込みたいと思った。初雪を踏み荒らす幼子のように。
愚にもつかない遣り取りを煩わしく重ねるのが嫌いではない。
手を放せば消えるだろう女とただその時だけの冗長だが退屈しない会話を交わしていると、その間だけは掌に鳥の雛を包むような奇妙に生温かい安心感を覚える。穏やかといっていい程に心が平らかになる。これでもういいのだと、そんな気になる。
何も許されてはいないのに。
何も片付いてはいないのに。
誰かの、何かのたったひとつになりたかった。
歯車やねじ釘のようなものではなく。
唯、求められるものになりたかった。
たったひとつの、何かを見付けたかった。
理由や義務に縛られることなく、唯闇雲に掴んで離さずにいたいような何かを。
唯、そこに在れと思える何かを。
その存在ただそれ故に、底まで浚って何一つ残さず奪い取りたいと思える何かを。
「干柿さん、桜が咲いてますよ」
傍らを少し離れ、遅れて歩くから、声はいつも斜め後ろから聞こえる。
「暖かくなりましたねえ」
のんびりと気を許した声に瞠目する。
僅かに俯いて襟に口許を埋め、口角を上げる。
「桜は咲き出すとあっという間なのが寂しいですね」