第35章 海へ来たらば ー暁with黒の教団ー
「まだそれを言いますか」
「言いますね。貴方が変わらない限りは言いますよ」
鬼鮫は溜め息をついて、牡蠣殻を引っ張り起こした。
「海に落ちてましたが本は無事ですか」
「…ご覧の通りです」
懐からブヨブヨになった本を取り出して、牡蠣殻は悲しそうな顔をした。
「これしか持って来てないのに、読む本がなくなってしまいました…」
「読む本がないと困るんじゃないですか。あなた人と話してても本を閉じないですからねえ」
「本がないと寂しいんです」
「馬鹿らしい」
「何とでも言って下さい。読む物に窮すると説明書でも取扱書でも読みたくなる者の気持ちが貴方にわかりますか」
「サッパリわかりませんね」
「…でしょうね…」
「海に来たらば海を楽しんだらどうです」
「泳げないのに?」
「泳げなきゃ海が楽しめないなんて、感受性が鈍過ぎやしませんかね」
「…鈍い…」
牡蠣殻が、眉根を寄せて腕まくりした。
「じゃあ晩ご飯のお菜でも採りますか」
脚衣の裾も折り上げて、磯の潮溜まりに入る。
「亀の手、貽貝、フジ壺、蟹、食べますか?美味しいですよ」
「夕飯は宿で出ますが」
鬼鮫も履物を脱いで脚衣の裾を上げた。
「磯遊びも悪くありませんね。得意でしょう?磯の出なんですから」
「磯遊びは好きです」
「でしょうね。物採りはお手の物でしょうしね」
岩場の隙間を覗き込む牡蠣殻を見下ろして、鬼鮫はフと笑った。
牡蠣殻は気付かない。
「気持ちいいですね」
不意に顔を上げた牡蠣殻が、屈託ない笑顔を見せた。
潮溜まりに立つ小さな波がチャプチャプと細やかな水音を立てる。
生温い風が吹いて、再び岩場に目を落とした牡蠣殻の後れ毛が靡いた。
「そうですね。…気持ちいいですね」
遠く沖に目を眇めて、鬼鮫はまたフと笑った。
今この時間は、ただひたすら長閑で、欠けたところのない穏やかなもの。
ただ、この時間は。
何時までも続くものではないし、またある事とも限らない。
胸が潰れるような息苦しさを感じる。不快なものではない。だがどこか物悲しい穏やかさ。この一時が永遠ではなく、同じ時間は二度と巡って来ないのがわかっているからそう感じるのだろう。
しかし、だからこそ尚満ち足りる細やかな今。