第20章 磯 其の一
「ふぬ?何の事はない擦り傷だが・・・頭や腹を打ったか?」
「ぬかるみに足をとられて膝を擦っただけです。本人も初めはケロッとしていましたが」
母親が顔を曇らせる。
「血が止まらないのです。小さな傷の事だからとあまり気に留めていませんでしたが、こうなると異常です。出血してもう三日になります」
「三日?そんなに放っておいたらいかんだろ!」
「ですから、あちこち回ってきたのです。どこでもわからない、どうしようもないと匙を投げられて、それでこちら様へ・・・」
磯に置いて医師を司る薬師の系列でも深水の名は別格、場違いという思いを拭いきれないながらも子を思う気持ちの滲む顔で、母親は口を噤んだ。
「そういう時は最初から私のところへ連れて来なさい」
波止が険しい顔で言う。
と、言って怒っている訳ではない。
子の病で気を弱らせた親を、波止は責めない。
誰が辛いのかは見ればわかる。すんだ事をくどくど言っても陽は差さない。
人の命を預かる者は誰より冷静であれ。誰より人を見、心を寄せろ。
回復以外に願うことのない状況を保つよう心懸け、全力を尽くせ。
難しい。
一平は幼子の白い顔を診て内心ほぞを噛む。
手足の色合いを見ればそもそも色黒の、外遊びをよくする子のように見受ける。
それがこうも顔色を失うまで何をしていたのか。
「一平」
顔に出ていたのか、波止に声をかけられてハッとなる。
「呼気をよくしなさい。さもなくば下ってよし」
一平は唇を噛んで平伏した。
「失礼致しました。務めます」
「二度は言わぬ。心得なさい」
波止の言葉に二度平伏する。
床の子は身じろぎひとつしない。あどけない顔に胸が痛んだ。
助けたい。
我知らず小さな手を摩りながら一平は口を引き結んだ。治療にもならぬが波止が重篤な患者にこそするその行為で幼子を慰めながら、一平は我も骨から薬師の者なのだと内心苦笑したとき、小さな患者が目を開いた。
「・・・・・・」
不意をつかれた一平の目を、扁桃の形をしたあどけない真黒い瞳がとらえる。
気付いたか。
思った瞬間、一平を見止めた幼子の目に何かが宿った。
ああ、先ずは良かったな。
他意なく目尻に笑みを浮かべた一平に、幼子は物言いたげな目色を浮かべた後、瞼を閉ざした。