第54章 【ウンメイノヒ】チュウガクキ①
「優しい人よ、英ちゃんを連れ戻すこともパパが言ってくれたのよ?」
母の笑顔がひどく歪んで恐ろしいものに見えた。
母の声はどこか遠くなって、ドクン、ドクン、そう胸の脈打つ音だけが耳元で大きく繰り返す。
母とともに暮らしていたあのころ、次々に変わっていく男たち……
そいつらとの苦く辛い思い出が一気に脳裏を駆け巡っていく。
とっさに掴まれた母の手を払い、オレ、ヤダ……、そう後ずさりをする。
どうしたの、英ちゃん……?、そう母はまた距離を縮めもう一度オレの手を掴む。
「あ……えっと、だって、オレ、今の家族がいるし……」
「ああ、そのこと、いいのよ、英ちゃんは私がおなかを痛めて産んだ子なんだから」
「だけど、オレ、みんなとこのまま青学に進学するし……」
「何言ってるの、英ちゃんは高校なんて行かないのよ、働いておうちにお給料を入れるの」
パパがそうしようって、その瞬間、目の前が真っ暗になった。
ああ、そうだよ、オレ、なにを期待したんだよ……
いつだってそうだった……いつだってこの女は息子のオレより男の方が大切で……
そうだよ、この女がオレにいったい何をしてくれたって言うんだよ……!
思い出すのはいつも苦痛に耐えていた、幼い頃の辛く苦しい日々、それから優しくオレを迎えてくれた、今の大切な、本当に大切な掛け替えのない家族たち。
……気をつけてね?、朝、不安そうな顔で見送ってくれたかーちゃん。
怒ると怖いけど、勉強しろってうるさいけれど、だけど、いつもオレのことを大切にしてくれる優しいかーちゃん。
オレのかーちゃんは、世界でたった一人だっての!
「やだよ!オレ、菊丸英二だもん!英ちゃんなんかしんねーもん!」
触んな!来んな!絶対行かないかんな!、そう喚きながら母の手を振り払う。
英ちゃん、どうしたのよ、そう戸惑いながら伸ばされる母の手を何度も払い続ける。
そのうち、振り払うオレの手がパチンと母の手に当たった瞬間、母の顔つきが変わったのを感じた。