第11章 朝の二人
私の背中を撫でていた岩泉先輩の手の動きが止む。
「……シホ。そろそろ時間だ」
岩泉先輩の胸から顔を上げると、見下ろす岩泉先輩が私の頭を撫でた。
約一時間ほど浸かっていたせいで立ちくらみが怖くて、二人でゆっくり温泉を出る。
朝の涼しい風を体に受けるのが丁度いいくらい。熱くなった体と一緒に、ふわふわした頭の温度も下げていってくれた。
「またな」
一度私の指先を掴むと、パッと離してそのまま背を向けて歩き出していく岩泉先輩。
あっ……行ってしまう。
「先輩、頑張ってくださいね…!」
「おう」
顔だけ振り返らせて笑顔で一言答えると、岩泉先輩はそのまま男湯に繋がる道から帰っていった。
咄嗟で、ちゃんとしたこと言えなかった……。
後ろ姿を見届けて、一人で岩泉先輩のいなくなった温泉を見つめる。
さっきまでの自分の行動が、温泉から出ただけでいくらか冷静に考えることが出来た。
……もちろん冷静に見ればいい方向に話は進んでたなんて思わない。より最低な自分がわかっただけ……。
岩泉先輩がキスしてくれた唇に、そっと左手の指先を添える。
温泉の中で岩泉先輩が吐いた言葉や見せてくれた表情が、頭の中に浮かんでは次の岩泉先輩が浮かんでくる。
ぼーっと立ち尽くしている私の肌を、肌寒い風がひと撫でする。
私も戻らなくちゃ……。
混浴に背を向けて歩きながら、岩泉先輩の話したある言葉に。今更だけど言いたいことがあったんだと思い出した。
岩泉先輩から逃げる方が後悔することになる……そう言ってたけど。
私に岩泉先輩から逃げるなんて選択肢はない。
岩泉先輩を傷つけようとしてまで、岩泉先輩から離れる選択肢を選ばなかったぐらい。
例えこの後何が起こっても、それだけは有り得ないと思う……。
それでも……当然のように岩泉先輩は私を手放すことができて、私はそれを追いかける権利を持っていない。
岩泉先輩が隣にいてくれることが当たり前じゃないことだけは、もっと真剣に考えてないといけない。
温泉から出ていく岩泉先輩の後ろ姿を思い出す。
いつかあの手を掴んで呼び止めることができなくなる日が来ないように。
ただ祈ることしか出来なかった。