第1章 罪深き河童よ
逃走劇の始まりはいつも突然だが、真選組から逃げ果せるには時間がかかる。それは「逃げの小太郎」の異名を持つ桂でさえ当てはまる方程式だった。
何をしでかしたかはご察しの通り。攘夷活動を率いる悪名高きリーダーが行う事など、幕府を混乱させるテロリズムしかない。だが相手もバカではなく、作戦は失敗に終わる。幕府の狗にも残念ながら切れ者が存在するようで、今回のテロも完全には遂行できなかった。しかしそれで諦める桂ではない故、彼は既に次の攘夷活動の作戦を頭に描き始めながら逃亡を図った。事前に仕入れ、そして頭に叩き込んだ情報を駆使し、桂は入り組んでいる住宅街を走り回る。
右へ左へ。無駄のない動きで少しずつ追手を撒けば、彼はもうひと頑張りとばかりに武家屋敷の塀を飛び越えた。
トスッ、と敷地内の土に降り立てば、桂は電気の点いていない離れ座敷へと足を進める。物静かな建物に安堵し、一つの部屋へと身を潜めた。しつこい真選組の追跡を完全に追い払えた訳ではないと確信している彼は、しばらくこの部屋でやり過ごそうと決める。神経を研ぎ澄ませ、屋敷の外へと注意を向けた。
「……お侍様?」
驚きで桂の肩が一瞬だが確実に震えた。いきなりの声に反応し、誰もいないと思っていた室内へと殺気を向ける。そして敵であれば瞬時に対応できるよう、手は腰の刀へと添えられた。
何故、忍び込んだ時に気づかなかったのか。そう広くもない座敷の中心に女が一人、布団に横たわりながら彼の方を弱々しく見つめている。
時は夕暮れ。普通は人の居る部屋が電気で明るくされている時間帯である。だが桂は愚かにも油断し、無人だと勘違いした屋敷に入ってしまったようだ。あえて暗い部屋へ忍び込んだのに、結果的には失敗となった。女の言動次第では、命取りな状況に自分を追い込んでしまったようである。
幸いなのは見つかった相手が床に着いた女である事だ。数歩ほど近づけば彼女に触れられる距離ではあるし、万が一彼女が叫んでも、彼女の悲鳴を抑えるくらいの余裕はある。女が余計な暴走をしない保証があるのなら放っておきたいが、念には念を入れ、傷つけるつもりは毛頭ないが、女が叫ばないように刀で脅そうと近づいた。静かに、そしてゆっくりと抜かれた鉄の肌が、女の目に映される。
「やっぱり、お侍様だ」
彼女は何故か、嬉しそうに微笑んだ。