第21章 バニラ
「なんだ?このやけに甘ったるい匂い」
何ヵ所か跳ねた髪で台所に姿を見せた翔は、寝ぼけた目を擦りながら鼻をスンと鳴らした。
片方だけ膝まで捲れあがっているのは、寝間着代わりのくたびれたジャージ。
だが、そのだらしない姿も、あと30分もすればそれなりのイケメンに変身することを、家族以外に知るのは彼女くらいなものだろう。
生憎、今はフリーだが。
「朝メシ……」
空腹を訴える声に、シンクの前で洗い物をする小さな身体からすかさず入る鋭い指摘。
「挨拶」
「うっ、おはよ」
背中を向けたまま、人間の基本的な礼儀を促す母親に、翔は渋々声をかけた。
「よろしい。朝ご飯は出来てるから適当に食べてね。お母さん、今から診療所入るから」
「おう」
「大学、遅れないようにちゃんと出なさいよ」
エプロンを外し、肩までの短い髪をひとつにまとめ、仕事モードへと切り替える母親の姿が妹と重なる。
「変なとこまで似んのな、親子って」
シンクの隅に大量に捨てられている卵の殻に首を捻りながら、翔は大きな口で欠伸をした。
人もまばらな早朝の住宅街。
黄瀬宅のチャイムを鳴らすと、結は口から小さく息を吐いた。
「おはよっス!」
白く霞んだ視界の向こう、勢いよく開いた扉からひょいと現れた長身に、不覚にも目を奪われる。
今日から学校に行くつもりなのだろう。
首に掛けただけのネクタイが、ゆらりと揺れるのを目で追いながら、緩む頬を引き締めるために全神経を集中。
「おはようございます」
「こんな朝早くからどうしたんスか?メッセージ貰ってびっくり……てか、外めちゃめちゃ寒いじゃないっスか!早く中入って!」
「う、わっ」
有無を言わせない手に引っ張られ、転がりこんだ先に待ち受けるたくましい胸に鼓動が跳ねる。
「昨日はお見舞いありがと。いいとこで邪魔が入ったけど、結の顔見たからすっかり元気になったっスよ」
意味深な笑みを浮かべる顔に詰め寄られて、びくともしないと知りつつ目の前の胸を押し返す。
「お、お母さんは?」
「あぁ。二日も仕事休んだからって、今日は早く出たんスよ」
何事にもオープンな彼の母親とのディープな会話に、尻尾をまいて逃げ出したことを思い出して、結は小さく肩を揺らした。