第85章 そして ここから
フラスコやビーカーや、シャーレやかくはん棒。
その他実験用具が敷き詰められた間には、天井に付きそうな程大量に積み上げられた書類の山。
広い研究室なのに狭く感じる程に、物で溢れた空間。
だけど今は、部屋の隅々まで邪魔なく見渡せる。
「今日で最後、かぁ…」
がらんとした広い空間には、長年使い込んだ机も椅子もない。
埃が僅かに残っている棚には、誰かが忘れたのか羽根ペンがぽつんと一つ転がっている。
物と呼べるのはそれだけで、他には何もない。
此処は黒の教団本部の、科学班専用研究室。
私が長年勤めてきた職場だ。
床も天井もシミまで詳細に見える空間は、見慣れた場所の見慣れない姿。
まるで長年連れ添った友の知らない顔を見たみたいで、なんだか新鮮だった。
そして、物寂しい。
本日限りで、私達はこの教団本部を出ていく。
荷物はもう既に、全て新本部へと運び終えた。
後は団員達の移動だけだ。
と言っても、アレンの方舟があるから移動だって一瞬。
感慨深い時間さえも与えられない。
だから私は、一人で此処にいた。
「…たくさん、お世話になりました」
何もない空間に向かって頭を下げるなんて、可笑しな光景かもしれないけど。
でも戦いに身を置いてる職場だから、この教団本部は私にとって命を守る盾と同じだった。
分厚い弾幕や暗い内装が多いから、お化け屋敷みたいだなんて言う人もいたけど。
実際、ゾンビ化事件の時は心底その内装にビクついたりもしたけど。
それでもやっぱり私には、安心できる、場所だった。
「おい」
「っわぁ!?」
静寂を破るような低い声。
いきなり背後から声をかけられて、誰もいないと思っていたから反射で跳び上がった。
ゴツリと重い足音が鳴る。
慌てて振り返れば、2m近くある大柄な背丈が真後ろに立っていた。
「随分と色気のない悲鳴だな」
「く、クロス、元帥…?」
無造作に跳ねた赤い長髪。
右顔を隠した白い仮面。
左顔には知的な印象の眼鏡。
一度見たら忘れない。
リーバー班長やラビより遥かに大きな体で、一切気配を感じさせなかった元帥格の男性。
クロス・マリアン元帥だ。