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ありがとうが言えなくて

第5章 初めて



 「って言ったものの…。おい」
 「は、はいっ」
 突然にこちらに声をかけられ、驚いて返事をする。
 「お前の母親は今日早く帰ってくるか?」
 「……え?」

 唐突すぎる質問。何を聞かれたか少し分からなかった。

 「2度は聞かない」
 「えっえっと…。今日はかなり遅いです…」
 「夜中か」
 「は、はい…」

 私が答えると、勇生さんは少しの間考えるように俯いていたが、すぐにこちらを向いて「お前…」と声を出した。
 「…覚えてるか? あいつの事」
 「え…? あいつ…とは……?」
 勇生さんはため息交じりに「覚えてないんだな…」と呟いた。

 あいつ…? 私と何か関わったことのある人のことだろうか。思い当る節など微塵もない。………。

 待て…。私をたびたび苦しくさせていた、あの少年のことだろうか。あの少年の事を勇生さんは知っているのだろうか。
 私が、名前も、苗字も、……あったであろう思いでも知らない彼の事を…知っているのであろうか。

 「お前、本当に思い出せないのか…?」
 「……あの、それって…?」


 「思い出したく無いだけなんじゃないのか?」


 その一言に私は固まり、思考は停止した。それでも勇生さんは続ける。

 「お前は、自分が辛い過去だからっつって忘れようとしてんじゃねぇのか? 無かった事にすれば、それは楽だもんなぁ。それで、今満ち足りて過ごしてんじゃねぇのか? 過去の人なんて忘れてよ。どうなんだ? おい」

 ………。……………。

 「自分だけ楽して、どう思うよ?」

 …………。あなたに……。あなたなんかに……。

 「……あなたなんかにっ……何が分かるんですか!!!」
 「…っ!」

 私は気づいたら叫んでいた。

 自分でも何が伝えたいのか、分からなかった。

 ただただ、私のことを知ったように言われるのが嫌だった。

 私はやっとの事で我に返り、勇生さんの方を見た。驚いたように目を見開いて、彼は何も言わなかった。

 「……ぁっ…。ごっごめんなさい! い、言いすぎました…! しっ…失礼します!」
 その場に居た堪れなくなって、私は家に瞬時に入った。



 「……私…ホント…どうしちゃったんだろ……」

 私は不意に何かの糸が切れたかのように、へなへなと座り込んで泣き始めた。
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