第32章 流れゆく時代
「ふぅ…、危なかった…。」
コハクが立ち去った部屋でひとり、モモはため息を吐いた。
コハクが諦めてくれたとも知らず、上手く誤魔化せて良かった、と額に掻いた冷や汗を拭う。
なぜなら、コハクにはローのことを一切知らせていない。
父親のことは、「とても強い海賊だ」としか教えていないのだ。
勝手なことだとは思うけど、ローの記憶を奪っておきながら、彼を父親だと言うのは あまりに都合が良すぎると思ったから。
だからコハクは自分の父親が誰かも、どんな顔かも知らない。
(最低な母親ね…。)
自分はローの記憶どころか、息子の父親さえも奪うのだ。
「母さん、なんか手伝うことある?」
手洗いを終えたコハクが戻ってくる。
「大丈夫よ。」
返事をしながら、モモはコハクの顔をじっくりと見つめた。
6歳となったコハクは、どこからどう見ても、小さなローにしか見えない。
お世辞にも良いとは言えない目つきの悪さ。
ちょっと癖のある黒髪。
6歳と思えぬ行動力。
医学への興味。
そして誰より優しい。
外見も中身も、ローにばかり似てしまって、モモは自分に似てるところを頑張って探すのが大変だ。
「…なんだよ。」
じっくりと眺められることに居心地の悪さを感じたのか、コハクは眉をひそめて身じろいだ。
ああ、その表情…ほんとにそっくり。
「別に。格好いいなって思って。」
「は…? なにバカなこと言ってんだよ。」
そういう口の悪いところは似なくても良かったのに。
あと十数年もしたら、コハクはどんどんローに似てきて、もしかしたらモモは記憶の中の彼に会えるかもしれない。
(ううん、でもきっと、その頃にはコハクはここにいないわね。)
コハクは男の子。
一族の女にしか受け継がれないセイレーンの力は、コハクに備わっていない。
だから、彼はいつでも自由に広い海へと旅立てるのだ。
いつまでも自分に縛られることなく、羽ばたいて欲しい。
そしていつか、海の上でローに出会えたなら…。
例え父子と知らずとも、モモはそんな夢を見られずにはいられないのだ。