第5章 可愛いだけじゃない【箱根】
「!お前の母さん来てるぞ!」
そう私を呼ぶ強羅くんの声でようやく我に返った。
どれだけ長く湯基くんと見つめ合っていたのだろう、時計を見ると時間はかなり経っていて、母が自分を心配して来てくれたことは容易に想像できた。
「行かなきゃ…!」
私の前から動こうとしない湯基くんの横をすり抜け、黒玉湯の外にいるであろう母の元に行こうとする。
しかし、それは彼に腕を掴まれたせいで出来なかった。
「ゆ、湯基くん…?」
「行かないでっす」
力強い腕はふりほどけない。
彼にこんな力があったなんて知らなかった。
その力に引き寄せられ、気が付けば私は彼の腕の中にいて。
私が知らないだけで、湯基くんは既に"男"だった。
「あんちゃんには、渡さない」
「強羅くん…?」
「誰にも、さんは渡さない。だから…
結婚してくれっす!!!」
「……………へ?」
突拍子も無い発言に顔を上げる。
湯基くんは既にいつもの表情に戻っており、真剣な顔で私の返事を待っていた。
しかし私といえば自体を飲み込めていないのでぽかんとして。
なんとも言えない空気が、2人の間に流れた。
「、えっと…考えとく、ね?」
「ほんとっすか?!やった!!!」
何とかこの場を治められる一言を口に出すと、途端に彼はいつものあったかい笑顔を浮かべる。
同時に、腕からも解放されたのでようやく私は母の元に行こうと向きを変えた。
「その言葉、忘れちゃダメっすよ?」
進めていた歩みを思わず止める。
耳元で囁かれた声は間違いなく湯基くんのもの。
後ろからだったからどんな顔で言っていたのかはわからなかったけど、その声はさっきの"男"のもので。
再び頬が熱を持つ。
また来てほしいっす、なんて可愛い声で言われたけどそれに返事をする余裕はなかった。
冷えた牛乳で冷やしたはずの身体が、火照ってしまっていたから。