第9章 空けもの
『で、でも!バイトは駅前の喫茶店って…』
「ここ、駅前の喫茶店だけど…。」
私はてっきり最寄り駅前の喫茶店だと思っていた。しかし、今思えば椎は一言も最寄り駅とは言っていない。
盲点だった。必死に思考を巡らせている間も彼の眉間の皺は深くなるばかりだ。
「…で?誰、その人」
椎がいつもより数段低い声を発する。
「おっ、やっと声かけてくれた。もうふたりの世界で忘れられてると思ったわ。」
そんな椎とは対照的に、彼はいつもと同じような軽い口調で返事をする。私は完全に忘れていたが。
「えーっと、彼とは知り合い?」
『あっ、はい…まぁちょっとした知り合いで…』
歯切れの悪い返事をする私。椎の方から痛いほどの視線を感じる。
『あのねっ…椎!この人は職場の先輩で__________』
「職場の先輩と…手、繋ぐんだ。」
どこか言い訳めいた私の言葉を遮って、椎が冷たく突き放した物言いをする。
店を出たときからこの状態だったため、忘れていたのだ。私は瞬時にその手から抜け出す。彼の目は冷たいままだ。
『し、椎…なんか、怒ってる?』
「………。」
困った。なぜか彼はだんまりで、私にはこの妙な空気を変えることができそうにない。どうしたらいいかわからず、思わず唇を噛みしめる。
_______________グイッ
(へ………?)
「美少年くんよ!この子、俺の彼女だから手もつなぐし、こんな風に抱き寄せたりもするのっ。」
その妙な空気を変えたのは、隣にいた彼だ。もちろんより一層悪い方向に。
その言葉は、まるで椎を挑発しているかのように聞こえた。大きな骨ばった手が、背後から私の首にまわっている。
『ちょっと!は、隼斗くん!!』
店内の客の数は多くはないが、それなりに視線を感じる。椎の驚いたような、悲しみにくれたような、その表情に胸が痛くなる。
『椎!これは…っ__________』
「葉月くーん?早くお客様ご案内してー。」
奥から従業員らしき人の声がする。
「………お席にご案内いたします。」
彼は初めて出会ったときのような、うつろな目をしている。この目を見るのは2度目だ。
孤独で、冷たい目だ。その瞳には、もちろん私など映っていない。