第30章 人形
「…平助君。」
慌ただしい時間がやっと収束を見せると、久摘葉は糸が切れたように手首をだらんと下げていた。
「どうしよう。帰りたくない、ここに残りたいってはっきり伝えたあの言葉が簡単に覆っちゃった。」
「……………。」
「私…。どうしよう。どうすればいいの。ここが大好きで、今はここでの出来事しか覚えてない。でも、知らないだけだからそう思ってるだけなのかな…。思い出したら、私は帰りたいって思うようになるのかな…。」
藤堂は決して口出しする事なく、ただ静かにその言葉を聞いていた。
藤堂の脳裏に浮かぶのは、紛れもなく千月の姿。
何があっても颯太をしたい、守りたいと願い、そして潔く帰還し命を差し出す事に何のためらいも見せなかった彼女の姿だった。
藤堂は決して口出しする事はなかった。
しかし、空の彼方へ消えていってしまいそうな久摘葉を大地へ繋ぎ止めるように、その手をそっと握っていた。
長い夜が開けようとしていた。
久摘葉の苦痛を嘲笑っているような、憎たらしくなる程に眩しい有明が世界を包んでいた。