第44章 狭くて、 丸くて、 ただひとつ(灰羽リエーフ)
「文字が読めないの?」とリエーフは尋ねた。
それが無遠慮な質問だとは気がつかなかった。 頭いっぱいに広がっていたのは、 "この世界には、 いつまで経っても慣れなくて”と先刻の彼女が発した言葉だけだった。 「でも、 日本語の発音は上手いね」
彼女は一度肩を竦める。
「教えて、 これにはなんて書いてある?」
ネイルを施した指先がページの上を滑っていく。 止まった場所は、 文学作品の最後の一節のようだった。
リエーフはまた深く考えもせず、 目に飛び込んできた文字をそのまま声に出して読み上げようとした。 が、 出だしから漢字が読めず、 口を中途半端に開けたまま固まってしまう。 困ってしまい、 あー、 と声を出す。
「サンズイに心って、 なんて読むんだ?」
「......私も分からない」
読める人がいない。
どうしようもない事態だ。 端正な書体で紙面に張り付いている、 その『沁々嫌になった』という文字列をしかめつらしく見つめる。
「たぶん、 すげえ嫌になったって感じのことを書いてるんだと思うんだけど」
自分なりの解釈を伝えると、 彼女は、 そう、 とため息を吐くように相槌を打った。 沈黙が二人を包んだ。
ごめんなさい、 とリエーフは小さな声で言う。 文字を読んでほしいという頼みを叶えてあげられなかったことが情けないのか、 自分でもよくわからなかった。 話題を変えようと思い、 息を吸う。
「お姉さんは、 」
そこでちょっと言葉に詰まって、 彼女の足元に見えるキャリーケースをちらっとだけ見た。 「どこから来たの」
「遠くから」
彼女は右方向を指差して、 「ずーーーっと遠くから来た、 」と目の前の線路の果てを示した。 そして空中に横線を引くようにして「ずーーーっと遠くへ行く途中」と、 反対側へ指先を移動させる。
「でも、 電車が来ないみたいなの」
「そうだ、 さっき人身事故があったって」
いつの間にかアナウンスが鳴り止んでいることに気が付き、 「ほら、 」とリエーフは椅子の背もたれに手をかけて後ろを仰いだ。 電光掲示板の存在を教えてあげようとした。 見合わせていた上下線の運転が、 30分遅れで再開したと伝える赤い文字が流れている。
けれど、 彼女には読めないのだと思い出し、 すぐに「もうそろそろ来るって」と言葉で伝えた。