第32章 まだ間に合うからジュリエット(牛島若利)
「シャワー浴びてきてって言ったじゃん」
「少し考え事をしていた」
「牛島も何か考えるんだ」
「まあな」
冷たい水道水が手の上を滑って排水口へ吸い込まれていく。 重ねるようにして押さえている牛島の手の上にも、 水が流れて、 滑って、 シンクの穴に吸い込まれていく。 流れて、 滑って、 吸い込まれて。 改めて見ると、 私たちは手の大きさが全然違う。
指先に感覚がなくなってきた。
「もういいよ」と引っ込めようとしたけれど、 「まだだ」と余計に強く握られた。
「3分以上は冷やす必要がある」
「いいよ、 牛島も冷たいでしょう?」
「平気だ」
「水道代が勿体無いよ」
「そのくらい気にするな」
いつもと変わらない口調だった。 「きちんと冷やさなければ、 なまえの手に火傷の痕が残ってしまう」
その時になって初めて、 私の腰に手が回されていることに気が付いた。 火傷の痕が残ってしまう、 火傷の痕。 それを気にしてそんなに真剣な顔をしているのか。 涙がぽろっと零れた。
牛島が私の顔を覗き込み、 な、 と少し動揺した素振りを見せた。 「何故ニヤニヤしている」
「してないよ」と私は言ったけれど、 自信はなかった。 「ニヤニヤしてるの?私」
「している。 泣きながら笑っている」
そんな、 と、 自分でも頬の筋肉が動くのが分かった。 「そんな変な人、 いないよ」
—-
タオルで手を拭いていると、 牛島がフライパンの中身を覗いていた。 僅かながら、 表情が明るくなるのが読み取れた。
「牛肉と玉ねぎとマッシュルームを炒めたの」と私は説明をする。 トマト煮込みを作っている途中だった。 「あとは水とトマト缶を入れて煮込めば……」
「ハヤシライスではないのか?」
「え?」
「ハヤシライスではないのか?」
牛島が、 蓋を持ったままこちらを見た。 ハヤシライスというのは、 彼の好物だ。
珍しく、 私にお伺いを立てているようだった。「今ならまだ間に合うのだが」
その言葉に噴き出しそうになった。 子どもか。 と言いたくなる。 口元を押さえる振りをして、 できたばかりの火傷に唇を当てた。 そうだね、 と私は頷いた。
「水とルーを入れて煮込めば、 出来上がりだね」
***
おしまい