第43章 魚は宙に浮かんだままで(山口忠)
今日は10月22日、水曜日。画家のポール・セザンヌが亡くなった日。メジャーリーガーのイチロー選手が生まれた日。パラシュートの日でもあり、そしてなまえが人生初の告白をする日。
「……緊張してきた」
ふー、と吐き出した息よりも小さな音量で、隣のなまえが呟いた。ピリッとした空気に、自分の身体も固くなる。
沈みかけた太陽を背にして、山口となまえは体育館裏でしゃがみ込んでいた。傍から見れば蟻を観察してるように見えるかもしれない。2人で決めた時刻までは後10分。きっと今頃、月島は山口に言われた通りに体育館の中で待ってるはずだ。多分、早く帰りたいと思いながら。
“今日の部活が終わったら、体育館の鍵を閉めるフリして少し中で待ってて欲しい”
月島にそう伝えたのはなまえじゃなくて山口だった。今までこんなことは何度もあったから、月島の方も、そう。いいよ。と無表情で返事をした。だけど長年の付き合いからだいたいわかった。あ、今日は機嫌が良い日だな、と。
「山口、ごめん、なんか泣きそう」
「えっ」
なまえが両手で顔を覆った。薄く開いた唇がわずかに震えている。
「当たって砕けろってこういうことを言うんだよね……わかってるよ、断られることぐらい」
詰まった息と一緒に吐き出された言葉に、気付いていたのか、と言葉を失う。望みが薄いことは山口も十分わかっていたことだった。それでも無理に励ましてしまう。
「泣いちゃだめだよ。暗い顔してたら、ツッキーだってびっくりしちゃうよ」
「そう、だね……ありがとう」
「目、こすっちゃダメだよ。腫れちゃうから」
「うん」
一粒だけ涙が伝ったなまえの頬には、続く雫は落ちてこなかった。逃げたいけれど、逃げたくない。そんな気持ちが滲む瞳を見て、こんなに綺麗な人なのに、どうして月島は興味を示さないんだろうかと不思議に思う。