第37章 天然フェニルエチルアミン(花巻貴大)
カッキーン、
なんて音がするはずもなく。貴大の両手は夜の暗闇を無音で引き裂いた。だけど彼の中ではボールはバットの芯を捉えたらしく、右手を目の上にかざして遠くを眺めている。はいはい、わかりましたよ、と私も腕を上げてフライボールを捕った。これでアウトだよ、残念。
ねえ、花巻貴大よ。知っているかい?
彼に送球するフリをしながら、私は心の中で問いかける。
世界では、3人に1人の少女が18歳になる前に結婚するんだ。
私達だって、うっかり避妊を忘れれば子供ができるし、うっかり茶色の紙を提出すれば結婚もできる。
私達はもうそんな歳なんだ。
線路の向こうの彼は、今度は両手の手首を合わせてボールを打ち返す動作をとった。その見慣れたレシーブの構えに、いつからバレーになったんだ、とまた笑ってしまう。
ねえ、花巻貴大よ。
トスの構えをしていたら、彼が後方に下がって、遮断機から距離をとった気配がした。
ねぇ、知っているかい?
お前の恋人は片想いの経験がないんだよ。
この好きという気持ちが、本物なのかどうかわからないんだよ。
お前のくれるチョコレートを舌で転がしながら、これが恋する気持ちなのかなぁ、なんてバカなこと考えてるんだよ。
見えないボールで、踏切の向こうの貴大にトスを渡す。
瞬間、大きな影がぐっと沈み込んだ。
あ、と思った直後には、ダンッ、と地面を踏み込む音。
バネのような跳躍。
月明かりの下で、ウインドスパイカーの彼の最高到達点で、切れ長の瞳が私を捕らえた。
その余りの迫力に、思わず息を呑み込んだ。
鋭い右手の切っ先が、私に向かって振り降ろされる。
脳が意識を仲介する前に、私の身体は見えないボールから逃げようと動いていた。
後退りをしようとした右足が、置いていかれた左足に引っ掛かって、身体のバランスが崩れて、世界が大きく回転する。
瞬間、轟音が鼓膜を揺さぶった。
気付いた時には、私の目の前を電車が唸りをあげて通り過ぎていた。