第35章 時は過ぎゆきて(菅原孝支)後編
「よくわかんないけど……ありがとう」
俺の感謝に対して南条は「礼には及ばねぇよ」と吐き捨てるように言って立ち去ろうとしたので「待て、行くな!」と慌てて呼び止めた。
「なんだよ」
「だ、誰かと話してないと緊張しちゃって」
「いつもどっか行けって怒るくせに、こういうときだけ縋ってくるのか?お前は」
「うっ……」
「話すならみょうじと話してろ」
冷たくあしらわれて、だって、と俯いた。俺だって出来るならそうしたいさ。けど、今朝からなまえの周りはピリピリと張り詰めていて、挨拶すらまともにできていない。
黙っていると、情けねぇなぁ、と南条が呆れた声を出して周りを見渡した。「どこにいるんだよ、みょうじは」
「わかんない。どっか行っちゃった」
「いるじゃねえか。ちゃんと探せよ」
あそこ、と指差す方を辿ると、空調に揺れる暗幕の闇の中に人影が見えた。
黒い学生帽に、切りそろえられた短めの黒髪。漆黒のマントに学ラン姿。
俺の知らない彼女の姿。
「ほら、憑依の儀式」
南条が夜風のように囁いた。
保冷剤を握る両手が、どんどん熱を失っていく。
暗幕に両手を添えて鼻先を寄せるなまえは、目を閉じて匂いをかいでいる様子だった。
バレーのサーブの時、ボールの匂いをかいで集中する選手がいるように、彼女もまたみょうじなまえという人間を捨てるための特別な時間を持っているのだ。
その周りだけ、沈黙が支配していた。
息を潜めて見つめていると、彼女がゆっくりと目を開けた。
いつもの大きな瞳が、切れ長の聡明な瞳に変わる。
その瞬間、ぞくりと恐怖が身体を駆け巡った。
見てはいけないものを見てしまった。
満月の夜に、狼男が獣に姿を変えるような。
新月の夜に、吸血鬼が白い首筋に牙を立てるような。
神秘的な暗闇が、足元に纏わりついてきた。
「……南条……俺さ、」
思わず友人を振り返ると、彼は既に立ち去った後だった。