第35章 時は過ぎゆきて(菅原孝支)後編
思考が止まった。
気付いた時にはなまえの腕の中にいた。しっかりと背中に手を回されて、痛いくらいに身体が締め付けられて、喉の奥から喘ぐような声が漏れた。
やばい。どうしよう。
胸が苦しい。息が出来ない。
なまえに抱きしめられてる。
世界がぐらぐらと揺れた。昨夜見たなまえのスカートの裾が、チカチカと瞼の奥で瞬いた。
「……逃げないでください」
ピンマイクでギリギリ拾えるくらいの、小さな声でなまえが言った。「僕の目を見て」
そんなこと言われても、見れるはずない。
だって、今なまえの目を見たら、
「僕の目を見て!!」
いきなり大声が耳をつんざいて、乱暴に顎を持ち上げられた。
バチン!と音がなりそうなくらいに彼女と目が合って、涙が出そうになる。
俺を見つめる真っ黒な瞳の中に、知らない女の子が映っていた。
あ、来た。と思った。
ついに来た。やめて。言わないで。
なまえの唇が震えていた。小さく開いた隙間から、絞りだすように、苦しそうに、呻くような音が漏れた。
「愛してる」
真っ黒な瞳が近づいて、どんどん吸い込まれていく。
身体が強張って、思わずぎゅっと目を閉じた。
荒い呼吸を繰り返す唇に、熱い吐息がかかって、
あ、と思った瞬間、柔らかい感触が押し付けられーーーー
「はーい、ちょうど3分でーす」
なかった。
「おっけー!いいじゃんいいじゃん!!」
その声に目を開けると、目の前に幕が降りていた。
抱きしめられてた身体もするりと離れる。
「お疲れ様でしたー。次、3年5組準備お願いしまーす」
気の抜けた生徒会の声に促され、夢と現実との区別がつかないまま舞台袖まで背中を押された。
「南条!幕のタイミング完璧じゃないか!」
いつもの笑顔に戻ったなまえが親指を立てた。「大地も、音楽止めるとこバッチリだったぞ!」
「あの、みょうじ……」
「菅原は、ちょっと身体硬かったかな?リラックスリラックス」
笑って肩をバシバシ叩かれる。その痛みに、あ、これ、お芝居だったな。と今更に思う。
俺、マジでキスする準備入ってたわ。