第35章 時は過ぎゆきて(菅原孝支)後編
頭の中が真っ白になる。
(やばい、次、なんだっけ)
目線、息遣い、指の先。なまえの全部がいつもと違う。
全部にドキドキしてしまう。
(こんなのおかしいよ。俺、男なのに……いや、みょうじも女か。でも今のみょうじは男だから……あぁ、もうわけわかんねぇ)
『いいえ、学校の外でも同じです』
ショート寸前の頭に、スピーカーから聞こえる声が鈍く届いた。『女だから、女のくせに、って……やりたいこともできないまま、女は好きでもない人と結婚して、家のために子供を産む人生を送るのです』
逃げます、
なまえが唇だけ動かして俺に指示をした。
あぁ、そうだった、と彼女との約束を思い出す。
(どんなに緊張してても、”逃げる”という単語が出たら、俯きがちだった顔を上げる)
それは俺の演技の中で最低限こなすべき動作の1つだった。
今まで忘れたことなんてなかったのに、どれだけ俺は冷静さを欠いているんだろう。
『貴方が羨ましい』
ため息混じりの声が聞こえる。『私も自由に生きたい』
「そんな、僕だって籠の中の鳥ですよ!」
なまえは大袈裟に両手を広げて高らかに言った。「学校を卒業したら、許嫁と入籍しろとお祖父様に迫られています」
そしてゆっくりと、はっきりと低い声で。
「まあ、"逃げます"けどね」
『逃げるですって?』
顔を上げるとなまえと目があった。
「ええ、偽りの愛は必要ありませんから」
そう言って優しく歪む目元を見て、あぁ、やっぱりダメだ、と思った。
『貴方は、愛がどういうものかご存知なの?』
(ダメだ。俺、ボロボロだ。でもだって、みょうじが悪いよ)
「ええ、よく知っています」
(練習ではこんな声じゃなかった。こんな目で俺を見てなかった)
教えて差し上げましょう、と右手が強く引かれた。引かれるままに、立ち上がる。
『離してください!』
そしてなまえの手を払う。『男女が手を繋ぐなんて』
「いいえ、離しません」
(えっ?)
台本ではなまえの手を払うはずなのに、俺の右手を固く握ったなまえは離してくれない。
「僕は自分の気持ちを殺したくない」
(どういうことだ?こんなシーン、台本には無かっーーーー)