第9章 澱の沈む夜に
ニナは振り返ってイルミを見上げる。呼吸がまだ乱れており胸が上下するたび濡れた布が肌に張りついて気持ち悪い。
それでもとにかく何か言わなければと思い、頭に浮かんだままに言葉を吐き出した。
「イ、イルミさん。どうしてここに?」
イルミは少しだけ首を傾げた。
「暇だから、何か呑もうと思って」
「そ……そうですか。仰ってくださったらすぐに……」
「いや、散歩も兼ねて……気晴らしに」
イルミの口から「暇」とか「気晴らし」などという言葉が出たことが、ひどく不思議だった。
仕事のことはニナには分からない。けれど、今回の旅が大変だったのかもしれないとは思った。帰ってきてからのイルミはいつもと同じように見えてどこか微かに落ち着かない。
けれど、何もこんな時にわざわざワイン庫まで来なくてもよかったのに。
ニナからすれば、何故かイルミはいつも間が悪い。
視線を落とせばどうしたって目に入ってくる。砕けた硝子。広がるワイン。濡れたドレス。
見れば見るほど、現実が重くなる。
「そう……ですか」
声が小さくなる。
ニナはまず、掃除をしなければと思った。次に割ってしまった瓶の銘柄を確認して、ツボネに報告して、謝ってそれから――
考えようとしたところで、イルミがふいに口を開いた。
「あ、そうだ」
ニナは顔を上げる。
イルミの黒い瞳が壁一面の棚へ向いていた。
「ちょうどいい。ニナ、付き合ってよ」
「え……」
イルミは軽い思いつきのように言った後、何事もなかったように簡易台の下の扉を開けた。
そこからグラスを二つ取り出す。
ニナは濡れた袖を握りしめたまま、ただそれを見ていた。足元には、割れた硝子が散らばっているまま。
けれどイルミは構わずワインを選んでいた。そして、ずらりと壁面に並ぶワインのうちの一本を引き出した。