第8章 不協和音(ディソナンス)
音楽室の扉を開くと、冷えた空気と木の匂いが微かに漂った。薄闇の中、フォルテピアノだけがぼんやり輪郭を浮かべていた。
イルミは無言で上着を椅子へ放り、鍵盤の蓋を開く。
白い指先が、無造作に低音を鳴らす。
重たい響きが、薄暗い室内へゆっくり沈んでいった。
オペラの作曲依頼を正式に受けたとはいえ、公演日も決まっていなければ、劇の台本すらない。
——で、何を書けというの。
イルミは小さく眉を寄せる。
劇の流れも人物像も分からないままでは、旋律の置き場すら定まらない。
仕方なく、思いつくまま音を並べ始める。
短い旋律。
途中で途切れる和音。
半端なフレーズ。
気まぐれのように浮かんでは消えるモチーフを、乱雑に楽譜へ書き散らしていく。
ペン先が紙を引っ掻く音。
鍵盤を叩く音。
静まり返った屋敷の中でそれだけが淡々と響く。
やがてイルミは、次第に考えることをやめていった。
指が先に音を探し始める。和音を重ね、崩し、また別の響きを試す。
長い指が黒鍵を滑るたび、残響が薄暗い部屋の空気を揺らした。
先ほどまでの落ち着かなさも次第に意識の外へ追いやられていく。
とりあえず疲れ果てるまでこうしていれば、やがてくる睡魔が妙な気分も攫っていくだろう。
まつ毛がふっと落ちる。
閉じた瞼の奥で、残響が静かに揺れる。
結局のところ、音楽家というのは音に触れている間しか自分自身を保てないのだ。
イルミは小さく息を吐き、再び指を鍵盤へ落とした。