第8章 不協和音(ディソナンス)
馬車の車輪が砂利を踏みしめ静かに遠ざかっていく。
玄関ホールには黒衣を身につけた執事たちが整列していた。その先頭に立ちながら、執事長ゴトーはゆっくりと目を伏せる。
「お帰りなさいませ、イルミ様。長旅お疲れ様でございました」
黒いコートを纏ったイルミが無言で外した白手袋を、ゴトーは両手で受け取る。露わになった指先は相変わらず血の気を感じさせず冷たい。
その直後だった。
コートを脱ぐイルミの視線が、静かにホールを巡る。
ほんの僅かな動きだが、ゴトーは見逃さなかった。
——探している。
「……しばらく部屋で休む」
イルミの視線が落ち、ゴトーは腕を差し出す。
「畏まりました。すぐにお茶をご用意致します」
イルミはコートを預けると、そのまま長い廊下を歩き去っていく。
ゴトーは静かに息を吐いた。
恐らく本人は無意識なのだろう。
——あの目を、ゴトーは忘れていなかった。
書斎を施錠し、ニナを打ち付けていた時の目。規律でも教育でもない。あれは、もっと別の何かだった。
イルミはゾルディック家の規律を重視する一方で、ニナに対しては危うい執着を見せる。
“ニナの淑女としての価値を守りなさい”
キキョウから秘密裏で命じられた長男イルミの監視。その意味を、ゴトーは十分理解していた。
ニナは既にイルミの身の回りの仕事から外してある。帳簿、礼儀作法、来客応対。
“公爵家へ嫁ぐ淑女”としての教育へ切り替えた。
イルミには何をしでかすかわからない危うさがある。あのまま近くへ置けば、いずれ均衡が崩れる。
12歳でゾルディック家に引き取られてきたニナは、養女の立場でありながら使用人さながらに家主からこき使われ、ゴトーは執事長としてニナを厳しく鍛えてきた。
だからこそ分かる。
あの娘は、壊れる寸前まで耐えてしまう。