第7章 序曲(オーヴァチュア)
翌日、宮廷の音楽室にて。
エレオノーラの歌声は紛れもない実力派歌姫のそれだった。
部屋を満たすのは、並外れた声量と高度なコントロールを要求される難曲。
それでも彼女は一切の乱れを見せない。
音程は一ミリも狂わず、リズムは鋼の如く正確。長く伸ばした高音域では、ビブラートが均等な振れ幅でかかり、息が減るにつれてその幅を自然に広げていく。声の粒は揃い、語尾は空気に溶けるように消えていく。
イルミはソファの背もたれに体を預け、長い指を組んだままじっと聴いていた。
エレオノーラが最後の音を優雅に閉じる。
……上手い。
技術的には、ほぼ非の打ち所がない。
むしろ、修正を加える余地すらほとんど見当たらないほど完成されている。
なのに。
腿の上で組んだ微動だにしない指先に視線を落とし、イルミはゆっくりと立ちあがる。
蓋を開けて準備されているフォルテピアノに向かうと、その有名な難曲の印象的なフレーズをなぞりだす。
「もう一度、冒頭から。……ここを、少しだけ遅れ気味に……」
エレオノーラは指示を即座に理解し、再び歌い始めた。
今度の歌は、さらに完璧だった。
イルミの指は、要所要所でエレオノーラの声に沿うように和音を重ねていく。
修正点は正確に反映され、さらに隙がなくなる。
それでも、イルミの胸には何も落ちてこなかった。
むしろ、先ほどより空虚さが増した。
時折差し込まれる和音でさえ、指が選んでいる感覚はなかった。
ただ、あるべき場所に、当然のように落ちていく。
エレオノーラは歌い終えると、イルミを真っ直ぐに見つめた。
完璧な微笑みのまま、しかし瞳の奥には挑むような鋭い光が宿っている。
「エレオ。いいかい」
イルミはエレオノーラから視線を外し楽譜に戻す。
「オケと交わることを考えると、場合によっては少し声を抑えた方がいい。この曲は……」
そのまま、何の感慨も挟まずに話し出すイルミをエレオは遮った。
「この曲は……」
エレオノーラは微笑みを崩さず続けた。
「私のためのものではありませんわね」
エレオノーラは背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「ですから——」
短い沈黙が挟まれた後、
「私のための曲を書いてくださいませ。
次に控えております、オペラの曲を」
その声はただひとつの結論を部屋に落とした。