第7章 序曲(オーヴァチュア)
人の輪の中で、ひとりがわずかに息を止めた。
扇子を持つ手が止まり、視線が鍵盤へと向けられる。
(……追ってきている)
イルミは演奏を整え、透明な淡々とした音色で旋律をなぞる。
感情を抑え華やかさを削ぎ落としたBGMさながらの平坦な音色で。
視線は、外れない。
イルミは今度は意図的にテンポを変えた。
指の動きが徐々に速さを増し、やがて呼吸も追いつかぬ速度へと達した。
その刹那、本来の位置からわずかにずらした鍵盤を爪先で鋭く引っ掻き、針のような緊張を音の流れに差し込んだ。
そのまま最後の一音まで弾き切り、指を離しても、部屋の喧騒は変わらなかった。
「……先ほどの演奏」
よく通る、澄んだ声がすぐ近くで落ちた。
扇子を手にした少女が隣でイルミを見つめている。その佇まいには迷いがない。
「途中、譜面にない流れでしたわね」
イルミは僅かに首を傾げた。
「そのように聞こえましたか?」
「……いいえ。“そう聞こえた”のではなく、そうでした」
静かに、感情の揺らぎなく言い切られる。
ピアノから向き直ると、イルミは鋭い眼で少女を見つめた。
終盤に仕掛けた毒針がどう作用するのかイルミにもわからない。毒の効き目は相手次第だ。
その声が落ちるまで、ほんの僅かな間があった。
「譜面に不備があったようですね。楽譜係に申し伝えますわ。どうか失礼をお許し下さいませ」
イルミの瞳が僅かに見開く。
少女は優雅にドレスの裾を摘み、右足を軽く後ろへ引いて、深く腰を折った。
「イルミ=ゾルディック様、お目にかかれて光栄に存じます。私、エレオノーラ=ルドルフと申します」
イルミはその名前を知っていた。
だが、表情を変えない。
「……それで?」
エレオノーラは顔を上げ、真っ直ぐ視線をイルミに向けた。
「もしよろしければ、歌唱のご指導をお願いしたく存じます」
「……理由は?」
「今の一小節で、十分ですわ」
イルミは一瞬だけ沈黙した後、頷く。
断る理由などない。
「ご希望であれば」
「後ほど、正式にお話を」
そう言い終えると、エレオノーラはドレスの裾を軽く翻し、また喧騒の中へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、イルミは内心で小さくほくそ笑む。手間が省けた。思ったより早く、ターゲットはこちらへ近づいてきた。