第1章 prologue〜拝啓、何回目への君へ〜
―――荒い、息遣いが聞こえてくる。
胸の奥で響くその音は、まるで獣の呼吸のように掠れ、震えていた。
冷たい空気を吸い込むたび、喉が焼けるように痛い。
誰の息なのか、最初はわからなかった。
だが、心臓の鼓動が痛みを伴って跳ねた瞬間――私はそれが自分の息だと気づいた。
――なぜ、こんなにも走っているのだろう。
足音が荒野に吸い込まれていく。
後ろを振り返っても、そこには何もいない。
ただ、灰色の空と、どこまでも続く深淵のような闇が広がっているだけだった。
風が砂を巻き上げ、視界を曇らせる。
追手の気配はない。
けれど、何かに追われているという確信だけは拭えない。
【なんだ、誰もいないじゃないか】
そう思い、私は立ち止まった。
その瞬間――冷たい掌が不意に背後から伸び、私の目を覆い隠した。
息が止まる。世界が、暗転する。
【使命を果たすんだ、グレース】
耳元で囁かれたその声は、やけに穏やかで、けれど底の見えない不気味さを孕んでいた。
吐息が首筋を撫でる。背筋にぞわりと寒気が走る。
意味が、わからない。
その言葉を聞いた瞬間、忘れていた恐怖が一気に蘇った。
――そうだ。これまでも、何度も、同じ声を聞いてきた。
夜明け前の夢の中で。
任務の最中で。
血の匂いの漂う戦場で。
正体不明の「何か」に、繰り返し、名前を呼ばれてきた。
それは、私に危害を加えるわけではない。
ただ、狂ったように“使命”を語る。
そのたびに、胸の奥で何かがざわめき、息が詰まる。
――耳を塞ぎたい。もう、聞きたくない。
たったそれだけの言葉なのに。
なぜだろう、聞くたびに何かを思い出してはいけない気がして、心臓が軋む。
風が静まり返る。
闇が私を包み込む。
そしてまた、あの声が、ゆっくりと囁くのだった。
【……使命を果たすんだ、グレース】