第30章 五色の夜 春日山城編 5 【信玄】
暖かい陽射しに季節の移り変わりをはっきり感じる。
まさか戦国時代で春を迎えるなんて。
私は、あの桜の若木を見に来ていた。
抜けるような青空の下、期待通りに初々しい花を咲かせている。
可愛い…
ほっこりしながら見上げていたら、
「名無し」
涼やかな声で呼ばれた。
振り返ると私のぴったり真後ろに義元さんの雅なお姿が。
「わっ!」
驚いた私は思わず後ずさる。
いつのまに来たの?
全然足音しなかったよ。
「咲いたね。とても愛らしい花だ」
「はい…」
頭に浮かぶのはあの夜のこと。
恥ずかしくなって一気に頬が熱くなる。
それを悟られないように慌てて顔を桜の方へと戻した。
動揺している私と違い、義元さんは普段と全然変わらない様子。
この感じ、幸村もそうだったな。
「これ、描いてみたんだ」
差し出されたのは一枚の紙。
そこに描かれてたのは大きな月と桜の若木
あの夜、二人で一緒に目にした景色だった。
「すごい…」
黒一色の濃淡だけで描かれた水墨画なのに、降り注ぐ月の光や空気感まで感じることができる。
感動しながら、繊細な表現を作り出している筆の軌跡を一つ一つ目でたどった。
「素敵です。眺めていると、あのときの気持ちになれます。きれいで、心地よくて、ワクワクして…」
それだけじゃなく、義元さんに感じたドキドキまで胸の中に再現されちゃって、私の心拍数は上がってる。
「良かったらもらってくれないかな」
「いいんですか?ありがとうございます。大事に部屋に飾ります」
「俺も大事にするよ、君と過ごした夜の記憶」
その言葉に、どこか切ない気持ちになった私は無言で頷いた。
「それでは失礼します」
一礼してその場を離れた。
少し歩いてから振り返る。
そよ風に髪をなびかせた義元さんの姿は、光の粒子に縁取られたように眩しかった。