• テキストサイズ

春の呪い【呪術廻戦】

第8章 (八) 蜜と生


 彼女はこう続けました。

「あら、桜の香りは、蜜の香りではないのよ」

 彼は予想していなかったその言葉に、目を見開いて彼女の顔を見ました。

「桜の香りは―――花の香りというのは、もちろん蜜もそうだけれど、葉や、幹、根、土、青空、日光、雨。風。数えだしたらきりがないけれど、それらすべての香りが蕩けているのよ。ほら」

 彼女は立ち上がり、桜の花をひと房取ってみせました。そして、彼の口へ、それを抛りました。

 あまりにも突飛で、いきなりのことに彼はまた驚きました。口の中にはあたかも開花するかのように、桜の花弁が広がってゆきました。

 ゆっくりと、彼はそれを噛みしめました。ふわりと、香りが喉にふれ、鼻を抜けて甘いため息となります。しかし彼はそのときなるほど彼女の言うことに納得しておりました。

 たしかに甘く、心地よい香りがしているのはそうですが、なんだか、彼は生き物を食んでいるような、感にさせられたのです。見上げると、無数の花々が空を覆っておりました。光はそれに遮られ、ちょうどよい影となりえますが、彼はその先の、光に照る桜を想像しました。日光を満ち充ちと浴び、時に雨、風に曝され、それらの沁み込んだ土や幹を介して養分が届き、花開き、そんな「生」というものを、ありありと見せつけられたようでした。

 彼は、感動をしていました。心打たれ、指先にまでその振動が伝わって、なんだか体の内が熱くなりました。こんなことは、はじめてでした。

 彼は、彼女のほうを向きます。彼女は、樹にもたれて、小さく寝息をたてていました。心地よさに、まどろんでしまったのでしょう。彼は、ほほえんで彼女の頬に手を遣ろうとしました。

 しかし、どうしてか、それはできませんでした。ためらったのです。

 彼女の頬は、まさに陶器のよう、でした。薄い薄い、陶器のように、ほんのささいな風のせいで、割れてしまいそうにきれいでした。

/ 11ページ  
スマホ、携帯も対応しています
当サイトの夢小説は、お手元のスマートフォンや携帯電話でも読むことが可能です。
アドレスはそのまま

http://dream-novel.jp

スマホ、携帯も対応しています!QRコード

©dream-novel.jp