第6章 夢見心地のマドレーヌ
「つか、そんなフラフラ歩いてっと、轢かれるぞ。」
顔面を鷲掴みにしていた手から解放され、それでも痛むこめかみを抑えながら、自分の斜め後ろあたりをフラフラと歩く杏奈に、松田が呆れたように言う。
しかし杏奈とて、いつもフラフラ歩いているわけではない。
一体だれの所為だと思ってるんですかと、杏奈が文句を言おうと口を開く。否、開こうとした。
杏奈が口を開きかけた瞬間、肩に熱を感じて。驚いている間に、グイッと強い力に引っ張られる。
トンっと何かにぶつかって顔を上げると、今までにないくらい近い距離にある、松田の顔。
見上げた杏奈に気付かずに、ったく危ねぇなと、松田は走り去っていった車を睨みつけている。
フラフラと次第に道の中心に向かって歩いてしまっていた杏奈を、松田が引き寄せることで回避させたのだ。
あ……タバコの匂い。
ふわりと彼の吸っているタバコの香りが漂ってきて。肩に感じる大きな手。鍛え上げられた厚い胸板。触れた場所から伝わる熱。
今までにないくらい近くに松田を感じて、ぼけーっとしていた杏奈の心臓が、ドキンとひとつ大きく鼓動した。
「だから言わんこっちゃねえ。おい、大丈夫か?」
言いながら杏奈の肩を抱いていた、松田の手が離れる。
自分を見下ろす松田の目が見れなくて、杏奈はその隙に触れている彼の胸をおして距離を取る。手のひらに感じた松田の逞しい身体に、また心臓が騒いだ。
視線を落としたまま、自分から距離をとる杏奈の様子に、松田が彼女の顔を覗き込もうとしたところで、それよりも早く杏奈が口を開く。
「セクハラ、だめ、絶対です。」
視線を落としたまま、一つひとつの言葉を強調するように、どこかの標語のようなことを言う杏奈に、はぁ?と松田が片眉を釣り上げる。
「お前、俺が引っ張らなかったら今頃ひかれてたんだぞ?」
「それに関してはどーもありがとーございます。普通に言ってくれれば自分で避けましたけどー。」
ふいっと顔を背ける杏奈。
心配してやったにも関わらず、その素直じゃない彼女の態度に、松田は大きく溜息をついた。