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アフタヌーンティーはモリエールにて

第2章 サルミアッキに魅せられて


ーー今すぐこの場から立ち去るべきだ。

そう頭の中で冷静な自分が言う。
しかし私は胸の内側から湧き上がる好奇心に抗えず、扉を動かし隙間を広げ、その奥を見てしまった。

キッチンのシンクの辺りに、ひとりの男が立っている。
私のいる扉に背を向けている男の顔は分からないが、燭台の火が照らし出すぼんやりとしたその後ろ姿だけで、それが私の父であることがわかった。

部屋の中にパシャパシャと水音が響く。それは父の手元から発されている音で、父がなにかを洗っているのだと、その動きと水音で理解した。

止んだと思えばまたパシャパシャと響く水音。
しばらくその音と父の動きに集中していると、フッと小さく息のはく音が聞こえた。耳に馴染んだその音は、父が笑いを零したときの音だ。

どこか満足気に聞こえたその音のあと、父は洗っていた何かを目の前に掲げて。フッとやはり満足気に笑いを零した。
私のいる位置からでは父が自分の眼前に掲げているものは見えない。

気になってそのままジッと見つめていると、父はそれを持ってテーブルのある方へと歩き出した。
私は父の動きに合わせるように、扉の隙間を調節して父に見つからないように、その何かを見るために息を潜める。


「あぁ…やっぱり綺麗だーーアンジェラ。」


父が愛おしそうに口にしたのは女性の名前。当然、誰のものか分からない。
しかし何処かで聞いたことがある。自分の少ない記憶の引き出しを引っ張っては戻し、引っ張っては戻しを繰り返す。

そして、思い出してしまった。

ーーアンジェラ。
それは私の母の名前だと。

しかし、母は私が産まれた日に息をひきとった筈だ。
少なくとも私は父からそう聞かされて育った。

ではアンジェラという名前の猫だろう。
何か理由があってこの廃墟で密かに飼っているのかもしれない。
だって人間の女性にしては、すっぽりと父の腕の中に収まり過ぎている。あまりにも小さい。

しかし、何故か私は違うと即座にその考えを切り捨てた。
だって、別の女性と言うには父の声はあまりにも甘く切なすぎた。

じゃあ一体…。
私がひとり思考を巡らせていると、父が両手に抱きしめていた何かをテーブルの上に置く音がして。私はその何かを目にした瞬間、思考の波から打ち上げられた。
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