第9章 ロシアン月餅ルーレット
鮮やかな琥珀色の水面の揺れるティーカップをソーサーに乗せ、ショートブレッドの鎮座するお皿とともに、杏奈はトレンチに乗せるて松田のもとへと向かう。
「お待たせいたしましたぁ。松田さん専用ブレンドティーでーす。」
ショートブレッドもどーぞーと、杏奈はへらりと笑って、それらを松田の目の前に置いた。
一体いつから俺専用になったんだよとツッコミつつも、悪い気はしない。
ごゆっくりどーぞーと立ち去る杏奈の背中を見送り、松田はさっそく自分専用らしいブレンドティーに口をつける。
流し込んだ瞬間に舌の上に広がる茶葉の甘さと、鼻腔を抜けるスモーキーな香りは、相変わらず自身の吸っているタバコに酷似した味わいだ。
杏奈の淹れた紅茶を飲んだら、もう他のもん飲めねぇよ。
彼女の淹れる紅茶は絶品で、これ以外の紅茶はなんとなく物足りなく感じてしまい、松田はめっきり外で紅茶を飲む機会が減っていた。
ブレンドティーを飲んで、改めて松田は思う。杏奈に自分専用だと言われたからか、いつも以上に美味しく感じて。まるでこの紅茶の香りのように、自然と松田の表情もほころんだ。
入店したときは直ぐにでも帰ろうと思っていたのに、杏奈の紅茶を口にしてしまえば、そんな考えなど鼻を抜ける甘くスモーキーな香りとともに、どこかへと行ってしまった。
穏やかな雰囲気で仕事をする杏奈を見て、松田もまた、この穏やかでゆったりとした朝の空気に、身を委ねることを決めて、ショートブレッドに歯を立てた。
「アンちゃんは、相変わらずイイヒトはいないのかい?」
不意にゆったりとしていた松田の耳に、老いた男性の声が飛び込んできた。
反射的に声の飛んできたほうへ振り返ると、還暦を遠に迎えたであろう、傘寿ほどの男性がにこにこと杏奈を見上げていた。その向かいには、妻だと思わしき夫人の姿があり、彼女もまた穏やかな微笑を浮かべている。
いやぁ〜と杏奈ののんびりとした声が聞こえた。
「それが相変わらず、いないんですよ〜。」
お恥ずかしいぃと照れたように頭に手をやる杏奈に、だろうなと、松田は納得したように心の中で呟いた。