第3章 残暑と家出
あの時の会話なんてなかったんじゃないかというくらいいつも通りの日々が続き、もうすぐ八月も終わりも迎えようとしている。
この頃になって俺は羽根の出し方やしまい方がわかってきた。もしかしたら記憶がある頃から俺はこの羽根の使い方がわかっていたのかもしれない。
「もうすぐ八月も終わりだね」
「早いですね」
「本当」
もうすぐ八月も終わり……ここら辺で出ていかなければならないかもしれない。
九月に入ればユリさんも大学に行かなければならない。いつまでも俺に構う時間はないだろう。
だがそのことを告げるのはもう少し先でもいいのでは? と思ってしまう。
実際思っている。
「俺の記憶も早く戻ればいいんですが」
「早く思い出したいもんね」
「はい」
本当のことを言うと徐々に思い出してはいる。
黒羽丸という名前、自分が妖怪鴉天狗だということ、誰かに仕えていたこと。誰に仕えていたのかまではわからないが、少なくともここで油を売っていてはいけないというのはわかっていた。
『黒羽丸はクソ真面目だな』
いったいこれは誰に言われたのか。
俺はどこに帰るべきなのか。
何をすべきなのか。
「黒羽丸? 黒羽丸?」
「はい?」
「さっきから呼んでるのに全然聞いてくれないから。頭痛い? 何か思い出したの?」
「……いえ、まだ何も」
「そっか」
嘘だ。思い出してるのにそれを言わないのはユリさんと離れたくないからだ。
なんて女々しいのか。
「ユリさん」
「なに?」
「俺、今夜ここを出て行こうかと思います」
ここに長居していてはダメだ。きっとお互いのためにも。
「俺はここに長居しすぎました、甘えてたんですユリさんの優しさに」
「そ、それにしたって急すぎない?」
「いえ、前から考えていたことです」
嘘つきめ。ついさっき思いついたんだろう。自分が逃げるために。
臆病者め。
「そっ、か。うん、わかった。でもご飯だけでも食べていってよ、ね?」
「わかりました」
夕飯はやたら豪勢だった。冷蔵庫にある食材をほぼ使ったんじゃないかってくらい豪勢だった。
「作りすぎじゃないですか?」
「そう? ほら黒羽丸の好きなハンバーグもあるよ」
別にハンバーグが好きというより、ユリさんが作ってくれたのが好きなんですが、とは言えないよな。