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第10章 丘を越えて行こうよ



「あ、行くんなら台所の薄皮饅頭持ってってね。福島の叔父さんが送ってくれたの」

「コラム作家さんに頼んでよ。たまには体を動かさないとどんどん老け込むよ」

「散歩してるよ」

「リハビリじゃないんだから、散歩じゃなく競歩の心積もりで歩きなさい!行ってきます!」

サンダルを引っ掛けて飛び出した表は、今日も白いくらい晴れた暑い夏日だ。

「ひー。暑いー!」

目の上に手を翳して、詩音は顔を顰めた。

住宅街になってしまったこの辺りは、詩音が子供の頃田んぼだらけだった。蛍が飛んで鮒が泳ぎ、蛙が鳴いて水路がせせらいでいた。スーパーが建って家が林立した今も、合間合間に名残の田圃が青々と残る。その稲の上を水を含みながら吹く風が、詩音の髪を幼い頃と同じようにサラサラと嬲っていく。
水と稲の匂いが心地好いが、今はそれどころじゃない。

前日になってやっぱり無理なんて言われても私ゃ替わっちゃやれないよ。ヤだからね!ダメだよ、ダメダメ。
大体一也のヤツ、ふたりきりで会う間があったんならちゃんと説得しとけって。…て、いうか、その為に会ってたんじゃないワケ?

何処かでそう思っていた。何だかんだで、一也が加奈子に鼻の下を伸ばしてたなんて思っていない。何か理由があって、その理由は多分加奈子の説得で、だから結局は加奈子が司会をするんだろうと思っていたし、一也が詩音が本気で厭がることをさせることは絶対にないと思っていた。

だって一也くんは、小さな頃から、何があってもずっと詩音ちゃんの味方だったから。

タイムラグを埋めるのは思いの外難しいものだ。

父の言葉が頭を過って、速歩だった足の動きが鈍った。

そうなの?

そんなに距離が出来ちゃった?

そういうもんなの?

風が止んだ。途端に道路の輻射熱が立ち上って、暑さに眩んだ目が立ち眩みのときに似た歪んだ景色を見せる。

遠く置き去りにされるのは、もう厭だ。

詩音は足を止めて踞った。

気付いたら手が届かないなんて思いはもうしたくない。

無意識に顔を覆った掌に涙が滴った。

置いてかないでよ。
側に居てよ。寂しいよ。寂しいよ。側に居て、大丈夫だって、独りじゃないって言ってよ。ずっと一緒だったじゃない。何で離れて行っちゃうの?
私、頑張ったよ?頑張ったと思う。でも足りなかった?まだ頑張らなきゃいけなかった?

「…詩音ちゃん?」

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